こんなことがありました

ともに高齢の患者さんのできごとです

 

※Aさん

 

長年にわたり私の外来に通院していました

10年ほど前に癌がみつかり、Aさんは治療は受けないと意思表示をされ経過観察を行っていました

最近は症状が現れるようになり何度か入院をしています

 

ある日のこと

友人の方から「クーラーが壊れた」と連絡がありました

Aさんは身寄りがなく独居です

今まで以上に暑い夏です

このときはお元気にされていましたが、早くエアコンの修理をしないといけない状況です

 

数日後ケアマネジャーさんから「弱ってきています、入院をお願いします」と緊急の連絡

 

熱いお部屋で過ごされたことによる熱中症だろうと判断

入院していただきました

 

 

ところが…です

 

入院されたAさんの診察にうかがったところ

体中が黄色くなっているのです!

癌による閉塞性黄疸と胆管炎を発症していました

 

急遽治療方針を切り替え

今は落ち着いた状況で過ごされています

 

振り返ると

「暑い部屋」⇒ぐったり⇒「熱中症」

との思い込みとなったわけです

 

 

※Bさん

 

ある日の夕方のこと

やっと勤務を終え家に帰ってビールを一杯と思っていたところ

内科病棟の看護師さんからの電話です

――いったいなんだろう?

 

感情を表に出さずお話をきいたところ

Bさんも癌にともなう合併症で治療を受けていました

病状が安定したので自宅への退院の話がでていた方です

そのBさん、突然発熱したとのことでした

 

あいにく主治医が不在で連絡をとったところ

「腫瘍熱かもしれない、癌の終末期(?)なので〇〇先生(私のことです)と相談をしてください」とのこと

それで私に電話がかかってきました

ということでした

 

とりあえずの指示を出して、看護師さんの話では熱以外の症状は落ち着いているようなので翌朝早めに診察に伺うことになりました

 

 

翌日さっそく診察へ

Bさんも顔が黄色くなっていました

診察と検査の結果、胆道の感染症だとわかり抗生剤の点滴で落ち着かれました

癌⇒緩和面談すみ≒終末期⇒発熱⇒「腫瘍熱」

という公式ができあがっていたのです

 

病状の安定を確認して

Bさんの希望であったご自宅への退院の準備を始めました

 

Aさんは「熱中症」

Bさんは「腫瘍熱」

との思い込みからあやうく重要な合併症を見逃すところでした

 

この経験からもう一度医療の基本に返ってみることの大切さを学ぶことができました

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うまくまとめることができるか不安がありますがAさんをめぐってのたくさんの出来事がありましたのでお話として残しておきたいと思います

 

主な登場者はAさん(患者さん)、Bさん(奥様)、Cさん(担当の看護師さん)、そして私です

このお話をブログに載せることについては奥様からの了解をいただきました

 

(1)Aさんとの出会いまで

ある日のことです、食事をしていてつかえる感じを覚えました

しかし病気と結びつけるほどの症状ではなく時々あっても仕事の忙しさにまぎれて忘れていました

翌年のこと毎日のように食べ物が飲みこみにくくなり、近くの医院で胃カメラを受けたAさんに「食道癌です」と突然の病名が告げられました

 

すぐに大学病院に紹介され治療を開始することになりました

担当の医師から説明を受けたAさんは手術よりも抗癌剤での治療を選択

Bさんはといえば手術をうけてほしいと思っていましたが、Aさんの選択に任せることにしました

その準備をしていたところ、あることがきっかけで感染症を発症、また出血を伴い一時ショック状態に陥りました

ICUに入り生命の危険性もある状態だったようです

Bさんもあきらめかけていたある日

突然Aさんからメールが届きました

奇跡が起こった!!

意識が回復したのです

それからは抗癌剤治療と放射線治療の開始です

またその時期胃婁を作ることになりましたが、Aさんはすでにその覚悟を決めておられ、「よかった」と話されたそうです

 

翌年になり

声がだんだんと出にくくなってきました

腫瘍が気管を圧迫してきたのです

医師から気管切開のお話がありました

今まで自分で決めてきたAさん

このときばかりは激しく動揺されました

「食べることができないのはまだ我慢ができるけど、声を失うことは……」

葛藤されるAさん

Bさんは「私は心を鬼にして手術を受けてほしいと言いました」と後に話されました

心を決めたAさんに対して

その日にすぐ手術です

 

受け持ち看護師のCさんは次のように語ってくれました

「ある日突然話すことができなくなってしまった。もし自分に降りかかっていたら、もしかすると生きる希望を失っていたかもしれないような急激な変化と経過。それでもあきらめずに、心が折れることなく最期まで前を向いて生き抜いた姿勢を見て、こんなに強い精神力を持った方がいるのかと驚くと同時に、Aさんに出会えてよかったと感じました」

 

 

Aさんは3つの苦難を経て私たちの病棟に移ってこられたのです

ひとつは突然の告知、ふたつめには決意した治療が遅れたこと、みっつめは気管切開の決断です

 

(2)Aさんの人柄について少し述べておきます

 

会社を経営していたAさん

仕事一筋で決して愚痴を言わなかったそうです

責任感がつよく、面倒見のいい人でした

奥様や子どもをとても愛しておられました

 

病院では、何度も危機的な状況になりましたが慌てず悲観的にならず、いつも前向きな姿を見ていました

私たちスタッフには紳士的で、「ありがとう」じゃなく「ありがとうございます」とのお返事をされます

 

声を出せないためコミュニケーションは、顔の表情と身振り手振り、そしてホワイトボードを使っての会話です

ひらがなでいいところなのに一生懸命漢字を選んで思いや考え、感想などを伝えてくれます

ボードの裏にはスタッフ全員の名前を書いていました

 

一方では頑固な一面もありました

制限のある面会時間を延ばしてほしいという意見やケアに必要な物品へのこだわりがあり、ここまで頑なに希望を主張されるのはAさんにとって譲れない一線だったのだと思われます

そのことに対して看護師さんたちはAさんの納得のいくまで向き合ってくれました

 

(3)入院後何が起こり、Aさん・Bさんと私たちは何をしてきたのか?

 

たくさんの身体的な苦痛に直面しました

 

 

■痛みは癌の患者さんの8割が経験するといわれています

Aさんも入院時から痛みに悩まされていました

主には気管切開部を中心にして、腫瘍による痛み、周辺の炎症に伴う痛み、ときには心理的な痛みも加わっています

医療用麻薬、NSAIDs、鎮痛補助薬などを基本に返って学びなおしながら使ってきました

新たな痛みが出現するたびに和らげる方法をみんなで考えます

癌イコール医療用麻薬ではありません

ときには神経障害性の痛みを疑い補助薬の使用で改善することがあります

医療用麻薬のケミカルコーピングを疑った出来事もありました

その都度Aさんの訴える内容(ホワイトボードに書かれたこと)を大切にしながら、今度はこんな方法で対応していこうなどと意思統一してきました

 

 

■出血にも悩まされました

腫瘍からの出血があり、気管カニューレからなのか、口からなのか、あるいは気管切開部の周囲なのかなどを探りながらの対策です

止血が困難なときがありあきらめかけたときも、緩和ケアの姿勢――まだ何か方法があるはずだとこだわって、考えられる手段を試みなんとか止血にこぎつけたことがあります

 

 

■呼吸困難は避けられない苦痛です

唾液や血液の気管内への流入、肺炎や気管支炎による痰の増加などきりがありません

頻繁な痰の吸引が求められます

そのときの苦しさは経験しないとわからないものですが、声を上げられないAさんにとってはもっと辛いことでした

それでも処置の後には笑顔で「ありがとうございます」と書いてくれます

申し訳なさの気持ちとともによくなればいいですねと声をかけます

痰がつまりやすくなり

気管カニューレの頻繁な交換を余儀なくされました

あるときホワイトボードに何か書かれました

「最近じょうずになりましたね」

ご自分の苦しさよりも私の処置を気遣ってくれたのです

 

 

■Aさんが元気でいることの保証は胃婁からの栄養補給です

「体重を維持したいから栄養剤を減らすことはいやです」

体重がAさんにとっての元気のバロメーターなのです

私は感じました

生きたい、そのために頑張るということがAさんの生命線――絶対に守りたい大切な限界――であったのだと

こだわりがAさんの特質のひとつでした

Bさんもパートナーとしてその点にはこだわられていたように思います

 

 

■癌の進行とそれに伴う様々な苦痛という理不尽な状況に置かれてもなお、生きようとされる姿勢をみました

一生懸命にホワイトボードに書いてご自分の言葉を伝えようとされました

分かってもらいたい一心だったと思います

 

ある本からの引用です

――「あなたが伝えたいことは、こういうことですね」という返答の仕方

――力になれないと感じても逃げないで関わりつづけること

――患者さんは忙しそうな人にはとても話かけられない

――そばでじっと耳を傾け聴くことによって「手を伸ばせばあなたがいる」と言われる人になりましょう

辛いことを支えるためにはだれかがそばにいないといけないのです

ひとりで頑張るには限界があります

 

ふたたびCさんの言葉です

「Aさんが納得いくまで向き合おうと思いました。どんなに時間がかかっても、筆談の訴えを遮ることなく、誠意をもって傾聴に徹底することに努めました。Aさんはどんなにつらくても、感情に任せて声を荒げることすらできないのです。筆談に書かれる内容はAさんの心の叫びだと思って接しました。不満や感情を吐き出す機会を私は奪いたくなかったのです」

 

私はAさんの思いに応えることができたのか、その答えはまだわかりません

 

 

たくさんの支えがありました

Cさんが書いています

「奥様はとても献身的で、だるくなった足のマッサージをしながら二人の時間を過ごされていました。奥様は自分のできることとできないことをしっかりと見定めて、自分の生活も守りつつ、ご家族を最大限にサポートされていたと感じました。声をかけさせていただいたとき、奥様もあまり弱音を吐かない方で、揺らがない自分を保ち続ける強さがある方という印象をもちました」

Bさんは毎日決まった時間に面会にこられます

コロナ禍での制限ある面会時間を、有効に使われ、Aさんのマッサージをしていました

Aさんのストレスがたまってきたときのこと

散歩がしたいという希望が出されました

病棟のスタッフ全員でカンファレンスをもち、リハビリ目的という位置づけであればいいでしょうという結論になりました

さっそく準備の開始です

看護師Cさん、リハビリの理学療法士さん、そして私も付き添っていきました

長田の名所である鉄人広場です

そこで奥様Bさんと合流しました

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リハビリについても述べます

ご自分でトイレに行くことがAさんのアイデンティティでした

でも病状悪化や眠剤の影響があり転倒されたのです

Aさんの意思を考えリハビリの介入が始まりました

理学療法士さんもAさんと仲良くなることに努めてくれて、廊下を一緒に歩くほほえましい姿と何度か出会いました

 

(4)私たちはAさんとどのようにつながりをもってきたのか?

 

さいしょに看護師Cさんのまとめから

「Aさんはどんなに苦しい処置の後でも、看護師を呼び止めて筆談で『ありがとう』ではなく、『ありがとうございます』と書いてくれます

苦しい処置も笑顔で握手を求めてくれていました

私はどんなときでも、Aさんの筆談と握手を受け取れるように、その数十秒を大切にできるように日々の関りで意識して接していました」

 

 

後日ご自宅に伺い私からBさんにお伝えしました

繰り返しのところもありますがご容赦ください

「ホワイトボードの裏にみんなの名前を書いて、日に日にそれが増えていくことをAさんも私も楽しみにしていました

苦痛でしかない気管カニューレの交換、さいごには週2回になりましたが、Aさんからは『交換がじょうずになりましたね』とOKサインをいただきとてもうれしい言葉でした

いつも終了後には手を出されて握手をされるのです

いちばん記憶に残っているのは、みんなで鉄人広場に行った時のことです

(そのときの私の印象に残った写真を2枚お渡ししました)

コロナ禍の中でも実現できよかったなあと思っています」

(お二人のなれ初めも聞かせていただきました)

 

Aさんの言葉から

『少しでも長生きがしたいです』

『言葉を話すことができればなあ』

『贅沢は言いません、生きているだけで…』

『できるだけ栄養を摂って体重を維持したい』

『まだ食べる意欲はありますよ』

『短時間でも家に帰りたいんです』

『自分の死期が近いと思う、身辺整理がしたい、たとえ半日でも短時間でも』

その後にご家族と時間をとって面会していただきました

 

亡くなられる1か月前のこと

ゆっくりと話がしたいと声をかけられました

『穏やかに過ごしたいんだけど思うようにはいかないね』

『あと14~20日ですね』

このことに対してわたしはAさんといっしょにお正月を迎えたいですと話しました

『それは先生しだいですね』と笑顔

 

治療の開始が自分の責任でない理由で遅れてしまったことをさいごまで悔しがっていました

Bさんからも後日にくやしさや悲しみを交えてお話を聞かせていただきました

 

いよいよお別れのときです

ご家族が付き添われています

「小さくなったね、でも頑張って私たちを待っててくれてありがとう」

ご家族は看護師さんとともに体をきれいにし、準備されていた洋服を着せました

ダンディーなAさんです

ご家族とCさんは思い出話をしながら

「痩せちゃったね」「前はすごく肥えていたのにね」……と

 

Aさん、Bさんとの出会いからお見送りをするまで多くのことを教えられました

一言では言い表すことは難しいのですが、あえて言えば

 

悩んで、とことん考えて、みんなで話し合って、患者さんやご家族にとっての今できる最善の方法を選んで行動する

 

という当たり前のことでした

 

Aさんは厳しい現実に向き合い、Aさんなりの人生を見つけていかれたのだと確信しています

その生きざまに触れることができ、感謝の念に堪えません

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憲法記念日の5月3日

コロナ禍でなかなか開催が難しかった兵庫憲法集会が行われました

天気もよく、仕事がひと段落したので

思い切って参加しました

 

テーマは「憲法はあなたの命と未来のサポーター」

 

多くの方々が県内から集まりました

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開催前の歌と演奏です

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三々五々集まってきました

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主催者からのあいさつ

どんどん人が増えてきます

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老若男女、こどもたちも……

懐かしい顔にも出会いました

 

そして神戸出身の俳優・エッセイストの松尾貴史さんからの「ピースメッセージ」

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その後パレードがありましたが

私は次の用事がありここで集会をあとにしました

 

以下のふたつの写真はネットから拝借しました

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5・3憲法アピールから引用します

戦わないこと「非戦」こそ、多くの国の人々の平和を保障するとうたった憲法前文・9条による世界平和・人間の安全保障の実現です

今回は私が励まされた患者さんのお話です

 

Yさんは100歳

たくさんのご病気を抱えていらっしゃいます

 

訪問診療を始めて数年がたちました

息が苦しくなって病院を受診

足腰が痛くなってはやってこられます

骨が弱くなり、体のあちこちに骨折をおこしました

 

それでもいつのまにか症状は改善してきます

Yさんはいつも言われます

「どうして痛くなるんかな?」

「脚が腫れるのはなんで?」

「息が苦しい、なんとかならんかな?」

 

でも決してご自分からは「もうだめ」とか「しかたがない」とか

口にされることはないのです

だからこちらからも

「年のせいですね」とは言えません

 

だけど徐々にADLは低下

少し前までは酸素なしで階段の上り下りをされていました

今はお部屋の中での生活です

それでも次に伺ったときには前回よりも元気なのです

 

その姿をみて

私たちは感心すると同時に大いに励まされています

 

ひとはいくつになっても生きる意欲や希望を失わないのだなあと……

 

そのYさん

素晴らしい特技があります

 

「手芸」です

 

お部屋ではたくさんの作品に囲まれています

 

そして

ときには子どもたちにあげてね

と渡してくださるので

たまにはお預かりしてきます

 

そのごく一部がこの写真

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5月のコイのぼり

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 丁寧に編まれた人形

 

一つひとつが玄人の仕事です

 

またもうひとつうれしいことが…

 

お孫さんのそのまたお孫さんが生まれたと嬉しそうに話されました

『玄孫(やしゃご)』というそうですね

言葉としては知っていましたが

このようなときに使うものとは知りませんでした

 

Yさん

新しい作品を期待しています

でも決して無理はなさらずに……

 

私たちはYさんにいつもエネルギーをもらっています

ありがとうございます

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いろんな事情で入院期間が長くなった患者さんにはそれぞれの思い出があります

お付き合いが長い分だけたくさんのことをいっしょに経験してきたことが記憶として残ります

(決して入院期間が短い患者さんがそうでないという意味ではありません)

 

旅立たれたあと、様々な出来事が思い出されます

 

 

「〇時□分、ご臨終です」

ご家族に告げ、病室をあとにしたとき

これから寂しくなるなあとつぶやいてしまいました

 

Sさんと入院前の面談を行ったとき

認知機能の低下があり、物忘れや複雑な行為が難しくなっていましたが、一方では体や心のことへのこだわりを持たれた言葉が聞かれました

不安いっぱいのお顔をされていたことがとても印象に残っていました

 

それから1年近く病と闘われて私たちの病棟にやってきました

おもな症状は呼吸困難と不安感です

 

入院してから高熱が出たり、呼吸困難が強くなったりして、余命は長くないだろうと思われました

 

それでもSさんは頑張り

私たちはたくさんの思い出を共にすることができました

 

 

受け持ちとなった看護師さんには限りない想いがあるでしょう

私は今、主治医として関わらせていただいたことをありがたく思っています

 

 

Sさんからたくさんのことを学び、経験を共にすることができました

順不同で述べてみます

1)病状が悪化してきたとき、「早く逝きたい」「おとうさん(亡くなられたご主人)がまだ迎えにきてくれない」「もうしんどいのはいや」が毎日のあいさつになりました

それでもご家族のことや好きなことの話題になるととたんに穏やかな笑顔を見せてくれます

2)コーヒーが大好きなSさん

ベッドサイドでいっしょにインスタントコーヒーを飲みながら話をしました

受け持ちの看護師さん(プライマリーナース)も何度かコーヒーをともにしていました

苦しくてもコーヒーをお勧めすると「飲みたい」とはっきりと主張されます

3)ときには症状の悪化からパニックのようになることがありました

そのようなときには背中をさすったり、落ち着いて話を聞いたりしながら患者さんに寄り添っている看護師さんたちの姿を見かけていました

認知機能の低下も加わり、Sさんの苦痛を改善するためには薬に頼らざるを得ないことがあり、効きすぎたり効かなかったりと苦労をしながら病状に合わせた工夫をみんなで話し合ってきました

4)「食べると元気になる」「ご飯はおいしいよ」と食へのこだわりが強いこともSさんのidentityのひとつです

進行してきた時期にSさんにとって何がいちばん大切にしてもらいたいことなのかを考えるヒントになりました

 

 

Sさんとのお付き合いを振り返り、ふたつのテーマを考えています

 

 

<生きるということ>

 

毎日のように「早くおとうさんのところに行きたい」と繰り返されていたSさん

しかしご飯の時間が待ち遠しく、少しでも食べることができたときは「お腹いっぱい食べましたよ」「食べないと元気がでないからね」と笑顔を見せてくれました

コーヒーが大好きで飲んでいるときにはいい笑顔をしています

 

何度も危機的な状況になり、ご家族には余命は短いですと告げてはしばらくすると落ち着かれるという状態の繰り返しでした

 

「死別」をテーマにした本の中に次のような一節があります

「病状を理解していても、かなり悪くなるまでは本人も家族も意外にピンときていない。病状が急激に悪化すると、本人も家族も混乱しやすい。状況を理解しているはず、と決めつけず、混乱を受け止めることが大事。どのような状態でも、人間は生きたいと思っている」

「どんな状態であっても、生きることをすんなりと諦められる人はいない。緩和ケア病棟でも、この現実は変わらない」

(ともに「月間保団連」No1394より)

 

Sさんの姿に接して同じことを感じました

 

<ケアについて>

 

毎日同じ会話の繰り返しのように見えても、いい日があり、悪い日があります

聴診器を当てながら診察をしていると、Sさんはゆっくりと変化していっていることがわかります

「呼吸が苦しい」と訴えられたとき、胸に聴診器をあて丁寧な診察を心がけるようにしていますが、そんなとき患者さんたちがほっとされる表情を見せてくれる瞬間があります

いきなりの「心のケア」や「薬」ではなく、まず身体症状を受け止めることが心理面を大切にすることにつながるのではないかと気づかされることが少なくありません

 

WHOの緩和ケアの定義を改めて引用します

「緩和ケアとは、生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOLを、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチである」

 

Sさんが認知機能低下の進行やせん妄の出現、食事量減少、倦怠感の増悪に苦しまれたとき、プライマリーナースをはじめ私たちは悩み、何度もカンファレンスを行いました

その結果Sさんのもっとも大切にしたいことを目標としようと意思統一し、1日1回でも食事を安心してとっていただこうということになりました

そのことがQOLの向上につながったと思っています

 

※このような関わりの中でも最も重視することになったキーワードがあります

 

それは『コーヒー』です

Sさんはどのようなときでもコーヒーがのめれば安心していました

 

最期のお別れのとき

ご家族が準備された誕生日祝いのケーキとスプーン一杯のコーヒーをお孫さんが口に含ませてあげていた姿が忘れられません

Sさんは唇を通してその温かさを感じられたのではないでしょうか

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