(1)患者さんと仲良くなって からつづきます
それからは、本人の病状が悪化することによって家族間の問題が浮き彫りになりました。A氏と30代で結婚して以降長く連れ添った奥さんは大黒柱であったA氏が入院したことにより精神的な落ち込みも強くなり入院当初から涙することが多く、A氏がいなくなる事に動揺を隠しきれず不安な気持ちを打ち明けてくれていました。子どもが2人おられたが遠方の為身近に相談できる相手がいないとの事もあり、私は注意深く奥さんの事も気にして声をかけるようにしていました。A氏にとって奥さんはとても頼りになる存在だったので、奥さんの事も私にとっては家族同様にとても大切な存在になっていました。奥さんにとってよき理解者でありたい、一人で悩んでほしくないという思いから面会に来られた時は積極的に声をかけ奥さんの精神的なケアも行えるようにその都度時間を作り思いを聞くようにしていました。しかし、新型コロナウイルスによって面会制限がかかり、限られた時間の中での面会は奥さんにとっても辛かったと思います。そこで毎日夜に決まった時間に携帯でお二人が連絡をとっているのを知っていたので、私が夜勤の勤務の際に時間がある時にはA氏から「今日は○○さんが夜勤やから電話交替するな」といってくれ、奥さんの健康面や本人の事などを聞きながら話をする事が日課でもありました。また、来れない時は1週間に一度は奥さんに連絡をとり、本人が必要な物を携帯で話していたのが出来なくなった時からは、私から連絡をし、奥さん自身が負担にならない範囲で、伝えることもしました。
そしていよいよ食事がとれなくなり、終末期せん妄が出現してから遠方に住まわれている娘さんと連絡をとることができました。奥さん自身、仕事が多忙である娘さんに頼ることができず、本当は一番相談したい相手ではあるものの遠慮され話すことが出来ないと話されていたので娘さんがA氏にどのような思いがあるかを時間を作り娘さんと面談をすることにしました。娘さんは遠方で仕事が忙しい事から中々病院に来ることも難しい状態ではありましたが「出来ることは手伝う」という前向きな発言を聞くことが出来ました。そして娘さん自身も両親に対する思いがありました。自身の事で辛いことがありそのことで相談した際に、「自分が辛い時に母は泣いていました。本当は泣きたいのは私なのに。だから私は父の事では泣きません。一番辛いのは父だから」その言葉に私は頷くことしかできませんでした。
A氏本人、奥さんからも娘さんに遠慮されている部分があったので娘と奥さんとのわだかまりを少しでもとり除くことができればという思いがありました。しかし、関係を修復することは難しいので、それよりも奥さん、娘さんの思いは個々にあるが本人を思う気持ちは一緒であることを伝えれるよう、奥さん・娘さんも交えて面談する時間も設けることができました。思いの橋渡しができるよう今までいえなかった思いを第三者を交えて話をすることで奥さんの思い、娘さんの思いを知ることが出来ました。奥さんの思いは「最期は娘と一緒にお父さんを看取りたい」という思いを娘に伝えることができました。
出来るだけ娘さんも看取りに間に合うことができるよう遠方の為スタッフ間でも話し合い連絡ができるよう話あうことも出来ました。
こうして看取り時の蜜な話し合いも家族と交えて話す事が出来ました。そして最終的には娘さんも看取りに間に合うことができました。脈が触れず、呼吸状態が悪化し奥さんは間に合いましたが娘さんが間に合うか心配はしていましたが、娘さんが到着してからはっきりとした意識がない状態であったA氏でしたが娘さんがきてくれたことに元気をもらったのか脈が再度触れはじめた事、娘さんが来るということに反応され身体を動かされた事、しゃべれなくても耳は最期まで聞こえているというのは本当なのだと感じた瞬間でもありました。私自身、お看取りの経験は緩和ケアに勤務している以上何度も経験はありましたがやはり長期間こうして一緒にいる時間が長かった患者さんに出会うのは初めての経験で、患者以上にA氏の事を父親のように慕っている部分もあったのでこの瞬間がくることに私自身も動揺が隠せませんでした。そして最後の時は訪れました。最期は娘、奥さんに囲まれながら息を引き取られました。娘さん「美女たちに囲まれてお父さん幸せ者やね。よく頑張ったね」と話され奥さんも涙されながら本人に感謝の思いを述べていました。私はというと、娘さんが以前話していた「辛いのは本人だから私は泣かない」という言葉が頭にあり「辛いのは家族だから私は泣いたらダメだ」と頭では思っていましたがいざA氏の息が止まってから「これでもうA氏に会う事は出来ないんだ。いつも私の事を待ってくれ、いつものあの笑顔がみれないんだ」と思うと自然と涙があふれ出てしまったのです。それをみた娘さんが私にそっと涙をふくように気遣ってくれたことに申し訳なく思いました。
「私が泣いてしまってすいません」と伝えた時も「父の為に色々してくれたんだから。父にしたらあなたは、神戸の娘みたいなもんやし」と労いの言葉をいただきました。最期は笑いもありながら本人の思い出話をしつつ最期は迎えることもでき、A氏自身も娘と奥さんに看取られて最期を迎えることができたのは本望だったと思います。私自身もA氏を傍で最期までみとることができ、最初にA氏が私に「どんどん僕が弱っていっても最期までちゃんとみてな、頼むで。あんたが頼りなんやから」といって笑っていた表情を思い返し最期をみとることができたのは、私にとっても本当によかったと心の底から思いました。
看護学生時代からいつか緩和ケアをしたいという思いで緩和ケアの本だけは看護師になっても捨てずにおいてあり、当時の本なので白黒の本当にシンプルな内容で、学生時代はみてもよくわからなかった文章も、こうしてA氏との深い関わりを通して、学ぶことが沢山ありました。
学生時代、また新人の時にどんな看護師になりたいかを話す時に、いつも私がモットーとしている“人情味のある看護師になる”という思いに少しでも近づいていっていると感じました。患者、そして患者の家族に対して誠心誠意尽くし、大切に思っていることを言葉で伝え続けていったからこそ心の距離が縮まることのできた事例になりました。もちろんこの7か月間は楽しいことばかりでなく、辛い事も沢山あり、悩む事も多く、感情が入ることもしばしばありましたがその思いに流されるところまで流されても帰ってくる場所がこの病棟にはあります。その時々に家族と話し合いが必要な時は、スタッフの皆さんが協力してくれ、時間と場所を作ってくれました。また、私が困っている時、落ち込んでいる時にはその都度声を掛けてくれた主治医や師長、スタッフ。沢山の人の協力があったからこそA氏との関係が深まり良い最期を迎えることができたのだと確信しています。これからも誠心誠意に患者さんと向き合い、人情味あふれる看護師を目指して日々邁進していきたいと思っています。
そして、患者、家族の前で泣いてばかりの看護師ではなく、私の肩貸しますよ!といえるくらいの心の強い温かい看護師になりたいと思います。
私たちのまわりにはこのように頑張っている看護師さんたちがたくさんいます
ともに働けることに感謝しています