(2)

 
少女の母は、家から近い地域の小さな病院に入院した。
病名は不明。
以前から自覚していた腰痛の悪化と微熱が改善しなかったために入院することになったと父から知らされた。

「私がお母さんに無理ばかり言うものだから、お母さんは病気になっちゃたの?」
少女は母の病気の原因の一端が自分にもあるのだと思っていた。

授業が終わると友人との会話もそこそこに母の入院している病院に急いだ。
今日は元気そうですよと受け持ちのナースに説明を受けて病室のドアをノックする。
元気なときの母の返事が返ってきた。
「毎日ありがとうね、無理しなくていいのに」
「だいじょうぶ。私がここに来たいんだから、お母さんは気にする必要なんてないんだよ」

母の病気は町の病院では診断がつかないまま経過していた。
いちど父親といっしょに医師から説明を聞く機会があったが、腰の痛みは年齢的なものでしょうということだった。
――でもお母さんはまだ40代だよ。それなのに年齢的なものって…
少女は担当医の説明に不満足だった。
――じゃあ熱がでるのだって年齢的なものなの?
その後に行われた検査結果の話にいたってはまったく理解できなかった。
覚えているのは「血液検査で何かひとつ異常に高い数字が出ている」ということだった。

熱が出ている時の母はとても苦しそうだった。
37度台のときはまだ会話ができたが、日によっては39度まで上がることもあり、その時に面会に行っても声をだすことがやっと。それでも少女の顔を見ると笑顔で迎えてくれた。そのようなとき少女にできるのはただ静かにベッドのよこに置かれた椅子に座り、母の顔を眺めることだけだった。
「毎日来なくてもいいのよ」
母は決まって同じ言葉で少女を迎え、少女は「いいのいいの、私はお母さんが大好きなんだから」と同じ返事を繰り返していた。

父は仕事が忙しく帰りに立ち寄っているようなのだが、少女と出会うことはほとんどなかった。
そのことを何気なく不満に思っていたのだろう、少女が無意識に口に出したことがあった。
「お父さんは仕事が大切な時期なの。お父さんが働いてくれているおかげでお母さんもここにこうして入院していられるんだから」

少女は受験を控える学年になっていたため、生活の援助を父方の叔母にお願いしていた。
少女は叔母が苦手だった。
生活態度を口うるさくチェックされ、友人を自宅に招くと嫌な顔をされた。自然と会話の頻度も減り、必要最小限の言葉かけだけになっていた。

「叔母さんとは仲良くできている?」と母に聞かれると、「だいじょうぶだよ」と答え、それでも心配顔をされたときには「私だってもう大人なんだから」と笑って付け加えた。

ある日担当の医師が「相談があります」と母と父を呼び、少女も同席させてもらうことになった。
医師は「悪性の血液の病気のようです。このような小さな病院では必要な検査ができず、治療も困難です。私の出身大学には専門の医師がいます。そちらを紹介しますので受診してください」と告げた。
――お母さんは病院をかわらないといけないの?
先生の出身大学ってどこ?
私は面会にいけるのかしら?

大学病院は少女の住む地域から電車で5時間ほどかかる関西圏の県庁所在地にあった。
――今までのように学校帰りに立ち寄れる所じゃないんだわ
少女は母と離れざるを得なくなることでとても不安になった。
しかし母の病気を1日でも早く治すためには我儘を言ってるわけにもいかず、やむを得ず遠くの病院に送り出すことになった。
転院には父が付き添って行くことになった。

大学病院に入院している間は叔母との生活を耐えなければいけない。
大事なお母さんのためだもの、これくらいのことは我慢できるわ。

母は3か月間の入院で、病気も判明し、治療もうまくいったと教えられた
でも再発の可能性は高く、今後も3か月ごとに大学病院には検査のために通わなければいけなかった。
――お母さんが帰ってくる
これからは私も家のお手伝いをいっぱいしよう

少女は元気を取り戻した

そして迎えた高校の最終学年。
少女は医学部への進学を決意した。

 
(3)

 
最後の高校生活で少女は逞しく成長した。
母の病状への気遣いを心の奥深くかかえながら、医学部受験のための勉強に没頭した。
一方では友人との付き合いも関係を壊さない程度に行う術を身につけた。
父は娘の決意を察し、母が入院(年に2回ほど入院をしていた)のため自宅にいない期間は叔母に依頼をすることで、娘が家事から開放されるよう腐心してくれた。
母が待っていない家は少女にとってとても寂しい場所であったが、目的の達成のため辛抱することも覚えた。

田舎の高校から現役で医学部に合格することは過去には数えるほどしかなく、少女がいくら成績優秀であるといっても簡単に受かるとはだれも思っていなかった。
しかし翌年の春、少女は見事志望校に合格した。
入学することになったのは母が入院をお願いしている病院を併設している大学であった。
――やっとお母さんの治療に一歩近づくことができた

実家から離れて初めての一人暮らし。
必要なものはすべて一人で揃えた。
生活の拠点であるワンルームマンションも自分で決めて、契約した。
同級生たちは母親や父親と一緒に買物に行くことが普通であったようだが、羨ましいという思いはなかった。

初日はオリエンテーションで始まった。
女子学生は4割くらい。
さすが都会の大学、多くの女子はコーディネイトもすごいなと思った。
少女は地味なスーツで参加。

一通りの説明が終わり、休憩時間にちょっとした出来事があった。
バッグから文庫本を出して読んでいると、人の影に遮られた。
「はじめまして。君一人?」
怪訝な顔をしていたのだろう、目の前に立った男子学生は少しこわばった笑顔を作りながら、「僕も一人なんだ。ところで君、付き合っている人はいるの?」
いきなりの不躾な質問に無視しようとふたたび文庫本に目を落とすと、彼は何だという態度で離れていった。
これから医学を学ぼうとする人間がなんという軽薄さなんだろうと呆れ返っていると、隣に座っていた女子学生が、「気にしないで。かわいい女の子を見かけると、あいつはいつもあんな態度なんだよ」と話しかけてきた。
この女子学生とは今後親友となるのだが、それはもう少しあとの話である。

大学生活のスタート。
しかし授業は魅力的ではなかった。
出欠だけはしっかりととられるので休むわけには行かない。
苦痛に感じながらもまじめに授業を消化し、単位を取得していった。

それでも学生生活は初めてのことばかりで、少女にとっては心躍ることがたくさんあった。
誘われてサークルに2つ入った。ともに運動系のサークルで、うち1つはマネージャーも兼任した。
当然のようにアルバイトも始めた。週2回家庭教師を引き受けた。
時には合コンというものにも参加した。他大学の男子学生の友人も複数できた。
1年間は授業の合間にたくさんの経験をした。
母が大学病院に入院してきたときには毎日病室を訪れ、学生生活の楽しさをいつまでも話し続けたのである。
母はそんな娘の生き生きとした表情に目を細めながら、「たくさん経験することがあなたのためになることだから頑張ってね。もちろん勉強もよ」とアドバイスしてくれた。
父は入院のたびに付き添ってきたが、娘の生活に干渉するつもりはないと言った。
――お父さん、ずいぶんと丸くなったね
気分のいい時には両親はそろって街にでかけ、ふたりだけのデートを楽しんでいるようであり、少女はそのような姿を見るにつけこの大学に入学できて本当によかったと思うのであった。

2年生に進学した。
これまでの講義形式の授業に加えて実習が始まることで忙しくなったが、サークル活動やアルバイト、友人たちとの買い物や合コンには熱中していた。

少女はひとりの大人の女性として成長していたのである。

その頃から母との関係に微妙な変化が生じるようになっていた。
母の病状は相変わらず一進一退がつづき、年に2回は入院治療を要していた。
入院時にはいつもどおり面会に行くのだが、授業が忙しい、サークルやバイトが忙しいと長い時間母のもとにいることはなくなってきた。
とくに5年生になると臨床実習といって病院での実地の訓練が始まり、ますます面会が疎遠になっていった。
母は「無理をしなくてもいいのよ」と気遣ってくれ、ついついその言葉に甘えてしまう娘であった。

6年間の勉強が終了し、無事に国家試験にも合格。

彼女はついに医師=研修医となった。

ある少女のお話

ここに載せた一文は患者さんの終末期を考えるときの素材として、私が経験したり、見聞きしたことに若干の脚色を加えて構成しました。

テーマ(というほど大それたものではないのですが)は、「最期の看取りを迎えた家族の思い」とでもしましょうか。
不治の病を抱えた患者さんのご家族がその日を迎えるまでには長い道のりがあります。
患者さんもご家族もずっと同じ感情が続くとも限りません。
私自身これまでの自分の家族との付き合いを振り返ってみて、反省することがたくさんあります。
このようなケースもあるんだと思って書きました。

長い文章であり、ブログにはふさわしくないのかもしれませんが、何回かに分けて書いていきます。
可能であればお付き合いください。

 
(1)

 
少女は母が大好きだった。
中学の3年生になるまで母と同じ布団で眠ることが常で、そのぬくもりを感じると何ともいえない安心感が体全体を満たしてくれた。

地元の高校に進学した少女の成績はトップクラスであった。
定期試験の結果が出るたびに友人たちの誘いを振り切って急いで母のもとに駆けつけ成績表を見せると、母はいつも穏やかな眼で「そう、よかったね」と微笑んでくれるのだった。
彼女の成績が優秀である理由の一つに、厳格な父の存在があった。
父は学年で1番や2番をとることがさも当たり前という顔をいつもしていた。
少しでも結果が悪いと、大声を出すわけではないが、機嫌が悪くなって眼を合わせてくれなくなることを多感な少女はわかっていた。

温和な母と厳しい父。
きょうだいはいなかった。
友人たちは兄や弟、姉や妹がいたが、彼女は母が自分を出産するときに生死の境をさまよっていたことを親戚の人から聞いていた。
彼女は妹が欲しかったが病弱な母にはとてもお願いする勇気をもてなかった。
母は1年のうち4分の1は床に伏していた。

高校2年生の初秋、次のようなエピソードがあった。
放課後友人たちと図書館で過ごすのが習慣であったが、ある日帰ろうとして靴箱を開けると封筒が入っていた。
――なんだろう?
次のような文章が几帳面な字で書かれていた。

「僕は1年生の○○です。この高校に入学してすぐにあなたを見かけました。いきなり胸の高まりを覚えたのです。もしよければ僕とお付き合いしてください。OKしていただけるなら明日の夕方5時に海沿いの堤防で待っています」
手紙には丁寧な地図が添えられていた。
ごく簡単な文章だったが、○○という名前には記憶がなくどう受け止めればいいのか困惑していた。
母には隠し事をするのがいやだったので、手紙を見せることにした。
母は、「まあ、あなたに関心をもってくださる男の子がいるのね。率直な文章で好感がもてそうね。いやでなければ指定されている堤防に行ってみればどうかしら」と少女の頬を両手で包んでくれた。

その場所は少女の家から自転車で7~8分の所にあった。
少し早めに家を出たが、途中で足がこわばってしまいそれ以上ペダルを踏むことができなくなってしまった。やむを得ず自転車を降りて押しながら目的地に向かった。
いざ堤防が見えてくるとふたたび足がすくみ、近くにあった小屋の陰に身を隠してしまった。
時計の針が5時ちょうどを示したとき、青いセーターを着た小柄な男子が歩いてきた。
――どうすればいいのかしら
少女は迷いながらも小屋の陰から出ていくことができず、じっと男子の様子をうかがっていた。

男子はあたりを見回し、だれもいないことがわかると腕時計を確認しているようであった。
それから落ち着かない様子で堤防の周辺を行ったり来たりしていた。
少女はその姿を瞬きも忘れて見つめていた。
1時間ほどそうしただろうか。しだいに夕焼け空にかわってきた。
男子はもう一度腕時計に目をやり、肩を落とし、もと来た道を帰り始めた。
何度も後ろを振り返りながら、ゆっくりと…。

少女は男子の姿が見えなくなってから正確に30分待ってやっと小屋の陰から出てきた。
安堵と申しわけなさが入り混じった感情をかかえて自転車を押した。
――私ってどうしていつもこうなんだろう… 肝心な時に勇気がなくて…

自宅では母が待ってくれていた。
心配そうな母の顔を目にしたとたんに、一気に涙があふれてきた。
母の胸に顔をうずめながら声をあげて泣いた。

「お母さんごめんなさい。私ってダメな人間だよね」
「いくらでも泣いていいのよ。悲しい時にはけっして我慢しなくてもいいの」
まぶたを晴らしながら母の顔を見上げた。
母は何があったのか説明しなくてもわかってくれていると確信した。
「私、どうすればよかったのかな?」
「いつも通りのあなたでいいの。そのままでいいのよ」
たった一行の短い言葉で少女の胸は軽くなった。
「体がこんなに冷たくなって。あたたかいコーヒーを淹れるからいっしょに飲みましょう」
とくに何も話す必要はなかった。
この夜は久しぶりに母の布団に入り、安心して眠ることができた。

その翌日、母は入院した。

高齢のご夫婦がいました

奥様が入院され、ご主人がずっと泊まり込みで付き添われています

 

痛みが強くなり、徐々にモルヒネの持続皮下注射の量が増えてきました

それでも夜は眠られています

…ご主人がそばにいて安心なのかもしれません

 

日に日に弱ってこられているのがだれの目にも明らかになってきました

 

ご主人を含めたご家族と話し合いました

 

病状は厳しくなってきていること

薬の量が増えていること

今後起こりうると思われること

などをお話しました

 

いくつかのやり取りの後、沈黙が続きます

 

しばらくしてご主人が恥ずかしそうに口を開きました

「実は、この前嫁さんに聞いたんや。俺と一緒になって幸せだったか?って」

「そしたら嫁さんは『よかったよ』って言ってくれた」

私も看護師さんもそれはそれはという感じでうなづきます

 

娘さんがそのあとを引き継ぎました

「父は母と一緒になれたことで幸せをすべて使い果たしたと言っていました。それくらい幸せなのでしょう」

申しわけないのですが、聞いていてとてもこちらが恥ずかしくなるような微笑ましい関係のご夫婦です

思わず「奥様にも直接話されたのですか?」

「話したよ」とご主人

 

10代で所帯をもたれたお二人

長い年月いろんなことがあったことと思われます

 

患者さんは付き添われているご主人の姿が見えなくなると、途端に不安な表情になります

ほんとに大好きなふたりなんだと実感しました

私たちは患者さんの病状と同時にご主人の体調にも心を配りながらお二人のケアを続けています

083-01

 

日曜日の午後ずっと待っていた面会者がきてくれました

患者さんの会いたいという希望、面会者も患者さんが家からいなくなって寂しがっていたそうです

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この子のなまえは“くーちゃん”といいます

とっても人懐っこくて、初対面の私のそばにすぐに寄ってきてくれてあちこち舐めまわされました

 

「(ブログに)顔を出してもいいですよ」

と言っていただいたので、さっそく仲良しの写真をとらせていただきました

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くーちゃんはすごくうれしそうです

患者さんご夫婦も幸せいっぱい

目にはひとすじの…

緩和ケア病棟の開設前から「ペットの面会はどうしましょう」と話し合いを行い、一定の条件付きではありますがOKすることになり、基準を作成しました

(資料を参照してください)

なかなか来てもらえる機会がなかったのですが、このたび面会デビューが実現しました

これからももっともっと患者さん・ご家族の希望にお応えしていきたいと思っています

(参考:基準の抜粋)

緩和ケア病棟では、患者様が会いたいと強く望まれているペットのみ、面会が許可されている。

希望されている方には、ルールを守っていただけるよう、十分な説明と理解・協力が必要。

また、ほかの患者様やご家族の迷惑とならないようにも配慮する。

・ペットの基本は犬

・ケージを使用

・土曜日・日曜日の14時~16時の間

・・・・・・

等々です

――その他細かな決め事を定めており、守っていただくことになっています

 

 

病棟で節分の豆まきをしました

豆は「落花生」です

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一部屋ずつ「鬼」と「福」がたずねていきます

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いきなり部屋におじゃましたのでけげんな顔をされる方もいらっしゃいました

あとになって「ああ、○○さんだったのね」と一安心

普段むずかしい顔をされることの多い患者さんは、このときは満面の笑みを見せてくれました

「鬼はそと! 福はうち!」

豆(落花生)をぶつけられた鬼は逃げ出します

全部のお部屋をまわった鬼と福は息切れをしてました

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この写真はボランティアさんたちが準備してくださったぜんざいです

すべての行事に病棟看護師やその他のスタッフとともにボランティアさんたちの力が生かされています

ところで「節分」は、季節の変わり目ごとにあります

その季節の変わり目の前日が「節分」と呼ばれています

一年の始まりは「春」です

春の始まりが立春であり、その前日が「節分」となって、2月3日がとくにメジャーになったようです

――ここからの一年がいい年になりますように

との願いを込めて

患者さんたちにとって一日一日がいい日でありますように……