学生時代に同僚や先輩たちと世の中の出来事について夜な夜な議論しました
その中に「技術論」にこだわる人たちが何人かいて(私もそのうちの一人でした)、話に花を咲かせたものです
「技術を社会科学的にどうとらえるべきか」をめぐって多くの学者が議論を闘わせてきました
1930年代の唯物論研究会での議論が発端と聞いています
そこでは「技術は労働手段の体系」としてとらえようという考え方が中心でした
一方終戦後に「技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」との考え方が出され、体系説と意識的適用説とのあいだでの論争が行なわれています
私が学生のときに先輩からこの論争の話を聞かされ、「医療分野での技術をどうとらえればいいのか」というテーマで話し合ったことを懐かしく思い出します
長い間このことを忘れていましたが、ある書籍を読んだことがきっかけにして思い出しました
それは『医療者が語る答えなき世界(磯野真穂著)』です
私の貧弱な読解力では不十分なのですが、注目した部分を抜き出してみます
“医療者の仕事の根幹は、モノとしての人間を徹底的に標準化することで体系づけられた医学という知を、それぞれの患者の人生にもっとも望ましい形でつなぎ合わせ、オーダーメイドの新しい知を患者と共に作り出していくことにある。そこで作り上げられる知は、標準化されることもなければ、再現されることもないが、人間の営みが本来そのような再現性のないものである以上、医療という知もまた再現性のなさをはらむ。医療者の仕事は医学を医療に変換すること”(p163~p164)
簡単に言えば「医学という客観的法則を医療者により社会的に適用されたものが医療」ということになるのでしょうか?
臨床にたずさわってきた者としては素直に同意をしにくいというのが本音であります
EBMの時代と言われすでに久しいですが、医学はまだそれほど客観的とは言い難いとも思います
不確かな部分はまだまだたくさんあります
「この治療は100人のうち○○人に効果がある」あるいは「□□しか効果がない」といわれても患者さんにとってみればわが身はひとつだけです
100人のうちたったひとりであってもその一人が自分であってほしいと思われることがあってもあたりまえでしょう
また治る確率が高い治療を提示されても「副作用が強いので私は治療を選択せずにできる限りの穏やかな生活を望みます」という選択も間違いではないと思います
医学は長い間の医療行為の積み重ねから生まれたものです
最初に医療(行為)があったのでしょう
現在の医療現場でも同じ状況のようです
とくに私が今たずさわっている緩和ケアの領域ではその思いを強くしています
ガイドラインはたくさん出されています
ガイドラインがないと困ることがいっぱいです
私たちの行っているケアが何によるのかを振り返る基準は必要です
でも現場では通用しないことがあるということも経験から知っています
それはこれまでのブログでも繰り返し書いてきました
私が医師としての仕事のほとんどを過ごしてきた急性期医療の場ではガイドラインに導かれた医療はとても有効でした
緩和ケアの分野に身を置いてからは「そんなに簡単じゃないんだ」ということも痛感しています
「この薬を使えばこのように反応し、数日後にはよくなる」という世界から、「一人ひとりの心の機微に触れるケア」の世界はカルチャーショックでもありました
なので「客観的法則の意識的適用」ではすまされないなあと感じている次第です
なんだか結論が出ないままですが、これが過去の甘い議論を振り返っての感想です