ある女性のお話です

 

病気が見つかって数年

いろんな治療を受けてきました

 

腹痛と吐き気がつよくなり、緊急入院されました

 

ご本人は自分のこと、ご家族のこと、すべて一人で決めてきました

真面目に一生懸命生きてこられたのだと思います

 

症状が落ち着くと退院への希望が強くなりました

ご家族のことが心配なのです

家事が十分にできなくてもいい、家族と一緒に暮らしたいとの思いが日に日に募ってきました

 

でも、

病状は生易しいものではありません

一人でできることには限りがあることは、入院生活を見ているとだれの目にも明らかです

 

当初躊躇されていたご家族はご本人のつよい気持ちと、私たちとの話し合いの中でなんとか支えてあげましょう、ということになりました

……今しか家に帰ることができないかもしれない

 

難問は患者さん本人の自覚です

「家のことは何とかできます」

「点滴も自分でします」

「家族には頼らなくてもだいじょうぶです」

などなど

 

しかし症状は不安定で、調子のいい時には歩行器で歩かれており、食事もある程度は食べることができますが、ひとたび具合が悪くなると、「もうダメ、とても帰れない」と急激に弱気になります

重い病気を抱えていれば当然のことですね

 

まわりはハラハラしながら、みんなの力で援助をしようと相談しました

 

往診はこの先生に、訪問看護はここに依頼を、ヘルパーさんは何回必要? ケアマネジャーさんへの連絡は? などなど

ご家族もこの時間ならそばにいてあげることができます、トイレの介助もしましょうとやり繰りしていただきました

 

そんな周囲の心配をよそに、患者さんは「自分でします!」と強気の発言をされることも…

その時々の感情の変化に困る毎日でした

きっとご本人も迷いがあったのではないでしょうか

 

 

そんなある日、私は時間を少しいただいて患者さんとお話をしました

「○○さんはぜんぶご自分でしようとされていますね」

「きっとできると思います」

(病院のような療養環境が自宅でどの程度実現できるのかな?)

「でもね、しんどいときにはトイレに移るのもやっとでしょ?」

「先生、わたし家では一人でしますよ」

なかなかかみ合いません

 

そこで言い方を変えました

「○○さんは人からの援助、手助けはいやなのですね」

うなづかれます

「それならこう考えればどうでしょうか」

やや怪訝な表情

「人に助けてもらうという考えではなく、自分のしたいことができるようにまわりの人を『じょうずに利用する』ということではいけませんか? 自分でどんなことをしてほしいかを選択するのです」

表情に少し変化がみられました

 

それから数日後、

看護師さんの申し送りの場面です

「○○さんは、『自分の思うように家族やヘルパーさんを利用したい』と言われてます。これまで以上にご自分の考えをつよく持たれているようです」

それを聞いて私は猛反省です!

思いを伝えることはこんなにも難しいものだとつくづく感じました

 

 

これまでの急性期病棟での医療では、病気を治すことが最優先であり、そのためには患者さんの「自由の制限」もある程度やむを得ないこととして疑問に感じることはありませんでした

・食事が呑み込めなくなればミキサー食、それでも難しくなれば胃瘻を勧める

・トイレに行くことができなくなればベッドのよこにポータブルトイレをおき、そこで用を足してもらう、それもできなくなれば膀胱に管を入れたり、おむつにかえる

・歩けなくなれば車いす

これらのことを粛々と勧めてきました

そのおかげで、たとえば栄養がとれるようになった、失禁の予防ができ清潔が維持できた、転倒を防ぐことができた

結果、病気もよくなり退院された

当然患者さんやご家族に説明しながらの医療行為です

かってに医療者だけで行っているわけではありません

しかしときにはその行為が「ルーチン化」してしまい、あたりまえの医療・ケア・援助となってしまっているように思うときもあります

入院という「非日常」の生活・療養環境のなかで、患者さんの選択の幅は大きく制限されてしまうことになるのじゃないかという心配があります

これは元気な人にはなかなか理解ができないことのようです

 

 

緩和ケアの研修に行き、4か月間病棟の医療に携わるなかで、終末期の方への対応は急性期医療と同じではいけないのだと気づきました

ある研究会で「自律」という言葉がたくさんの人から聞かれました

「自立」は、足が不自由な方がリハビリの結果杖をついてトイレまで歩けるようになった、介助されていた食事を自分の手で食べることができた、などのときに使います

一方、「自律」は「人間として選ぶことができる自由がある」ということです

(参考:「緩和ケア読本」小澤竹俊著)

一人でトイレに行けなくなったときに、車いすに乗せてもらってトイレまで連れて行ってもらう、あるいはベッドの横にポータブルトイレを置いてもらう、あるいは膀胱に管を入れて尿をとってもらう…などのいくつかの方法を「自分で選んでもらう、選ぶことができる」ということなのです

食事の準備をしたいが買い物には行けない、食材を前にしても最後まで自分で調理をすることが難しい

そのようなときに家族の力に依拠したり、ヘルパーさんの援助を求めたり、自分でもっともよい方法を選んでもらうのです

 

 

その意味をこめて先ほどの女性の話を振り返っていただければありがたいです

 

そして彼女への説明がうまくいかなかったのは間違いなく私の力量不足によるものでした

 

 

これからもこのテーマは考え続けたいと思っています

 

 

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1年前の9月にこのブログをはじめてから50回目となります

よくここまで続けられたなあ と思います

 

最初は準備の様子や理屈っぽい話が中心だったのですが、6月に病棟をオープンしてからは患者さんやご家族、職員の動きなどをお知らせすることができました

 

「下町の緩和ケア病棟」シリーズも継続できています

 

少しずつ見てくれている人が増えてきた(ほんの少しですが…)と実感しています

 

どこまで持続できるかはわかりませんが、これからも日常の出来事や感じたことなど、とくに制限を設けずに書いていきます

いろんな職員やときには患者さん・ご家族からの投稿も期待をしております

 

次回は視点を変えることの大切さについて考えていることを書きます