感動的な看護を実践された看護師さんがいました

無理をお願いしてそのときの経験談を描いていただきました

私の下手なコメントよりもそのままを記載することが大切だと考え

このブログに載せたいと思います

(字句などわずかな手直しがありますが私の責任です)

 


私にとってのこの7ケ月は長いようで短かかったが、きっとこれからも看護師人生を続ける中でずっと忘れることの出来ない人だと確信している。

 

 

3月に入院してきたA氏は90歳代前半であったが高齢とは思えない程、気持ちもパワフルな人で活気に満ち溢れた人でした。直腸癌、仙骨・腰椎転移で長期座位の保持困難で臥床して過ごされることは多かったが趣味である折り紙を沢山折られ、地方裁判所の検事として長年勤務してから定年後は沢山のボランティア活動に参加され長期で続いていたのが水族館のボランティアでした。そこで、魚をかたどった折り紙を沢山の子供達に教え、50種類以上の魚の折り方を頭の中で熟知されていたという達人でもありました。性格は、真面目で何事も筋道を通して物事を勧めていくような慎重な方でもありました。

 

入院してからの3か月はA氏を知ることから始まりました。徐々に癌性疼痛が悪化しても’麻薬’という言葉に敏感で’麻薬=死’を早めるものと認識している為か受け入れるのにも時間がかかりました。症状があっても訴えはするものの薬が増えることへの抵抗もありました。

 

前院でまだ自分は治療がしたかった、化学療法もおこなったが副作用が強く年齢もあり医者からやめるよう説得されたと話され、そこでセカンドオピニオンも行ったが治療をしてくれなかったと今までの病院での医師の対応などにも不信感があったエピソードを教えてくれました。「頑張って長生きして奥さんと少しでも長く一緒にいたい」という思いが入院当初からありました。緩和ケア病棟に入院した理由として、本人から「前の主治医から疼痛コントロールが出来たらまた家に帰ったらいいと言われてこの病棟にきた」と話されており、まだここで終わりたくないという思いがあるとも話してくれました。入院当初からお話好きで今までの人生話や、折り紙の折り方など沢山の事を話してくれたのを覚えています。

 

月日がたつにつれ、疼痛が悪化し、何度も本人と話をした結果、時間を決めた麻薬から始まりましたが、飲みにくさと内服の数が増えることへの不満もあり麻薬のテープへと変更になりました。しかし、それでも痛みがUPすることがありましたが、我慢強いA氏の為、辛い思いを話してくれるものの、薬が増える事への抵抗の方が強かったようでした。その何かが変更になるたびに本人とは話し合いを続けました。なぜ薬が増えるのが辛いのか、なぜ薬の量をあげないといけないのか、一つ一つ本人と話をしながら本人の不安な事が解消できるように話をしました。主治医からの説明では特に質問はないものの、その後何か不安なことがないか伺うと、薬に対する思いや不満があったので、それを解決できるようにその場で何度も話をしました。また、主治医には直接言えない事も少しずつ本人の本音を引き出しながら話をすることで、信頼関係が生まれたように思います。

 

それからは、A氏も私が来てくれるのを楽しみに待ってくれるようになり、私自身もA氏に会う事が楽しみになっていきました。そして、親身になり親しくなればなるほど、本人の苦痛に対する思いに自分がどうしてあげればよいのか、またいつまでこの状態が続くかわからない精神的な苦しみに対して「この状態が100歳まで続いたらどうしたらいい?」と言われた時には言葉がつまりました。何かいい事をいってあげたい、この人の役に立ちたいという思いが先走ってしまいコミュニケーションに困ったこともありました。疼痛コントロールがうまくいかないこともあり内服をすすめても我慢してしまうA氏に対して、気持ちが溢れてしまい、A氏の前で涙がでたこともありました。するとA氏は「大丈夫や、痛くないで、ほら普通に座れるやろ」と端座位もままならないA氏でしたが、冗談をいって私に気を遣われたのです。そのことに私は反省し、師長に相談をしました。すると師長からは「患者さんの前で泣いたっていいやん。自分の為に泣いてくれてるんやって思ったら嬉しいと思うよ」と。また他のスタッフからも「傍にいるだけでいい。何も話さなくてもいい。聞いてあげるだけでいいんじゃない?」とアドバイスをもらいました。そして、もう一度冷静になり、再度自己学習として、コミュニケーションについて緩和の本を開いた時に傾聴、沈黙とありますがまさにこれだと実感しました。学生時代初めての実習で患者さんとコミュニケーションをとることに苦労した事、アセスメントや看護計画に必要な情報を聞くことに必死で自分の必要な事しか聞くことしかできず話のもっていきかたに苦労したことを思い出す事ができました。

 

傾聴と沈黙、この二つに重きをおきながらA氏と話すようになってから私自身の気持ちも穏やかになり、傍でただ寄り添い本人の思いに耳を傾けることによってそこからまた本人の思いを聞きとることができるようになりました。それからはより本人との距離も縮まり、知りたい情報はとことん付き添い本人が納得するまで時間をかけて話をするようにしました。本人の性格を知る事におよそ三か月はかかったように思います。

 


 

    (2)神戸の娘として につづきます

 

 

高齢の男性患者さん

体のあちこちに転移があり、とくにお腹の痛みが強くなって入院してこられました

短い間にいくつかの痛みの訴えと付き合うことになりました

 

 

―――医療用麻薬の使用で入院当初の疼痛は改善してきました

 

 

―――しかし

ある日、日が暮れ始めたころから明け方にかけて

疼痛の悪化を繰り返し

そのつどレスキューにて対応されていました

 

翌日になり

やっと痛みは落ち着いてきました

 

その次の日も同じです

日中はほとんどレスキューのお世話になることはないのですが

夜になると何度も痛みを訴えられます

 

患者さんと話しました

「私はもとから痛みに弱く、心配で眠れません」

不安が疼痛の閾値を下げているのではと考え

抗不安薬を処方し

夜間は眠剤でしっかりと眠っていただこうということになりました

 

成功しました

 

 

―――また別の日、回診をしていたときのことです

看護師さんから

「先生、患者さんが痛みで七転八倒されています!」との報告

 

病室にうかがいました

 

医療用麻薬の増量でも効果はみられません

 

基本に立ち返り、全身の診察を行ったところ

最初に症状の見られた疼痛の部位(外から腫瘍を触れることができます)とはどうも痛い場所が違うようです

 

よく見ると

皮膚の一部が盛り上がっており

そこを触るとすごく痛がります

 

口からの薬の内服が不十分なため点滴を行っていました

血管の確保が難しく「皮下からの点滴」をしていました

そこが腫れています

 

すぐに点滴を抜去

すると短時間で痛みは消え去りました

 

皮下からの輸液は手技的には簡単なのですが

欠点の一つに皮膚障害が指摘されています

以降は看護師さんの努力でなんとか血管確保がされました

 

 

―――さらに別の日のことです

 

ふたたび

「先生、患者さんがお腹が痛いといっています。レスキューも効果ありません」

との報告

 

もう一度全身の診察です

やはり腫瘍の部分の疼痛はまったく訴えられていません

皮膚の変化もありません

帯状疱疹を思わせる皮疹もないようです

 

「痛い場所はどこですか?」と質問

すると患者さんの手がいつもとは異なるところに伸びていきます

そこをおさえると痛みが強くなります

 

そこを中心に少し張っているようです

聴診器をあてるとグルグルをにぎやかな音が聴こえます

 

これは…?

さっそくブスコパンの注射をしました

数十分後にはきれいに治まりました

 

原因は「便秘」だったようです

浣腸をしてたくさんの大便が出てすっきりとしたようです

 

 

 

短い期間のうちに

様々な腹痛を経験しました

 

振り返ると

検査だけにたよらず、患者さんの話を聴き、身体診察で

原因がわかったということ

 

今回の出来事を通じて思い出しました

「癌の患者さんの痛み」は必ずしも「癌性疼痛」ばかりではないことを

 

 

 

私がお世話になっている緩和ケアの先輩医師が書かれた文章があります

一部引用させていただきます

 

「患者の体にしっかり触れ、体に起きている変化を身を持って把握し、そのことを患者・家族と共有…」

「身体診察を行わずに検査結果のみで立てた治療計画は、しばしば的外れとなり症状や不安を悪化させる」

 

身に染みて感じています

 

病院に貼り紙があります

新型コロナウイルス感染対策のため、入院患者さんの面会に制限が長期間設けられており、そこにはご家族およびキーパーソンの方に限り面会が可能(時間の制約はありますが)と記されています

 

ところで私たちはこの「キーパーソン」という言葉をよく使っていますが、患者さんやご家族にとってわかりづらいときがあるようです

 

さっそく調べてみました

 

☞キーパーソンとは患者さんに関係する人たちの中で、意思決定や問題解決の要となる人のことで、主には家族、親族、後見人がその役割を果たされています

 

患者さんとの信頼関係があり、状況の把握がされ、判断や助言ができることが求められています

病院からの病状や治療方針の説明を受け

家族間の意思や要望を取りまとめ病院に伝え

患者さんの意思はまず尊重されることが前提ですが、意思決定ができない場面では患者さんに代わる役割が求められることがある

というように、重要な立場にあります

 

 

最近のいくつかの出来事です

 

 

☆ご家族がおられない患者さんの転院相談がありました

通常は患者さんやご家族に来ていただき面談を行ってから「登録」あるいは「ベッド調整」とするのですが、このときは患者さんは寝たきりで来院できない状態でした

 

⇒やむを得ず一般病棟にまず入院していただき、その後「面談」としました

 

 

☆つぎのような例もあります

ご家族は中学生の息子さんお一人

患者さんはベッド上での生活でした

 

⇒入院先の病院まで出向いて「面談」を行いました

 

 

☆入院中の患者さんの場合

一人暮らしでごきょうだいは何人かいるのですが、みなさん高齢で遠くにお住まいでした

 

⇒退院に向けての相談が必要となりました

どなたがキーパーソンになっていただけるのか決まるまで時間がかかり

ごきょうだいの中でも

この分野は私が、この点はあなたが…など

混乱してしまいました

 

 

―――『カリフォルニアから来た娘症候群』

という表現があります

 

病気の患者さんの終末期に故郷を長く離れていたご家族が突然現れ、これまで近隣の家族と医師が時間をかけて話し合い決定した方針に異論を唱えられたりする「事象」のことだそうです

カリフォルニアや娘は比喩であり、唐突に来られた遠方からのご家族という意味です

1991年にアメリカで報告されたとの記載がありました

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初めて聞いた時、違和感を覚えました

「なんと失礼な」と思ってしまいます

でも、そのような事例があることは身近でも聞いたことがあります

医療従事者であれば多少なりとも似たような経験はあることでしょう

 

ご家族にとっては近い・遠いはあっても大切な身内です

どのような意見も頭から否定してしまうことはよくないと思っています

 

面談をしていて心穏やかではないこともありますが

時間をかけて話をしていくこと

みんなが納得するということは

難しいことかもしれませんが

それでもその努力は必要だと思います

 

〇〇症候群は、決して悪意のもとでの表現ではないと信じていますが……

 

 

 

キーパーソンをきめること

その役割はとても大事なものであることを私たちが十分に認識すること

が求められています

298-02

 

 

Aさんは長い期間治療を続けてこられました

手術、抗癌剤、放射線治療……

 

主治医の努力に感謝しながらも、「これからはホスピスで」との一言に戸惑い

まだできることがあるのでは?

あきらめたくないとのつよい意思で頑張ってこられました

 

 

Aさんはまだ若いながらもご自分のことを客観的にみることができる人で

病気のことすべてをご存じでした

人のために尽くす仕事に従事されていましたが、闘病のためしばらくお休みをされていました

少しでもよくなれば復帰したいと望みをもちながら

 

 

症状が強くなり私たちの病棟に入院してこられたとき

癌の腹膜播種からの腸閉塞をおこし

強い痛みと吐き気、嘔吐を繰り返していました

そのためたくさんのチューブ類やカテーテルが体についている状態でした

 

 

症状の緩和とAさんのあきらめたくない気持ちを目の前にして

私たちはどう支えるのかが大きな課題でした

 

 

「病気が重いことは十分にわかっています。泣いてよくなるのならいくらでも泣き叫びたいです」

「できることは何でも挑戦してみたい。先生から見たら勧められないって思われるでしょう。でもできることは何でもやってみたいのです。家族のためにも」

 

 

ある時には

「前の病院では食事がとれず(絶食になっていました)、余命は1週間って言われていました。でも何も食べずにこのまま死を待つことには耐えられません。できれば一口でいいから食べたい」と強く望まれました

腸閉塞の場合は教科書的には絶食が原則だけれど、AさんのQOLを大切にしたいと少しずつ経口摂取を開始しました

医療の常識にこだわらず、どうすれば好きなものを食べていただけるか

どうすればAさんの気持ちに寄り添えるか考えました

 

このとき私の頭には何人かの患者さんの姿が浮かんでいました

好きなものを食べることがその人らしさであったBさん

胃チューブから食べたものを出しながらでも食事をされたCさん

「豆腐はどうですか?」「プリンは?」「妻が作ってくれたものが食べたい」と次々と要求が増えてきたDさん

「生のきゅうりがおいしいんです」と丸かじりをされていたEさん

それぞれのひとたち…

 

ある日のこと

「退院はむりでしょうか?」

「病院での最期なんて考えられない。最期の一呼吸は家でと思っています。家ならひとりじゃない。誰かがいてくれる。夫や娘ともいっしょに自由に過ごせて、友だちともいつでも会える。コロナのことはわかっているけれど、面会時間が限られている、友だちとも会えない。私はもう誰とも良い時間を過ごせないまま死ぬしかないってことなの?」

 

新型コロナウイルス感染症対策のため、病院全体が面会制限の方針(短い時間に限られ、家族の面会だけ)であり、外出もできない状態であったのです

 

「妻がそれを望むのならそうしてあげたいです」

とご主人も同意されます

 

じつは積極的な治療は限界と告げられたとき、お二人の胸には〇〇療法や□□療法など、いわゆる「補完代替療法」がありました

 

「自宅であれば実施している所に連れていってあげることができる。何かできることがあるなら後悔のないように全部したいと思っています」

 

そのご希望は伺っていたのですが、入院では「混合診療」(※)が認められておらず、悩んでいたことでした

(※)混合診療:健康保険の範囲内の分は健康保険でまかない、範囲外の分は患者さ

ん自身が費用を支払うこと

この場合はすべてが自由診療となり費用が全額患者さん負担となってしまう

(日本医師会より抜粋)

 

スタッフで話し合いを持ちました

患者さんやご家族が望まれることなら叶えてあげたい

制限のある中で大切な時間を過ごさないといけないことを強いるのは申し訳ない

などの思いが出されました

 

そこからは急いで準備開始です

 

訪問診療をお願いできる、信頼できる医療機関を探し

同時に在宅療養の多くを支えてもらう訪問看護ステーションを見つけ

ご家族への介護指導や、たくさんのカテーテル類の管理方法の検討

だれとだれが主に介護を担われるのかを相談

……などなど

忘れてはいけないのは、代替療法を委ねる施設への紹介状です

しないといけないことが山ほどありました

 

ありがたいことに在宅ケアを依頼できる医師、看護師、介護事業所はすぐに見つかり

ご主人と娘さんも積極的に多くのことを覚えようと一生懸命でした

 

Aさんはご自分の病状が進行してきていることはしっかりと受け止められています

「現実はそうなんだと受け止めていくしかない

家族は一生懸命してくれている

少しでも家族と一緒の時間をとりたい

私は希望を持ち続けます

やってみせます

家に帰り

会いたい人と会い

家族とすごせる願いが叶うことがとてもうれしい」

 

そしてついに退院の日

ーーーこれから精一杯楽しみます

と帰っていかれました

 

幸せな時間を過ごしてください

そして苦痛に耐えきれなくなれば戻ってきてもらって大丈夫ですよ

と一言添えて送り出しました

 

ご自宅では毎日のように友人たちの訪問があり

好物をわずかでも口にされ

信頼できる医師や看護師の訪問で安心し

大好きなご家族とともに大切な時間を過ごされ

 

望まれていた何か所かの施設を訪れて「治療」を受けられたそうです

 

何日かたち

Aさんは病棟にもどってこられました

 

痛みは今までになくつよくなり

入院を望まれました

 

 

医療用麻薬を増量し、症状はいくらか落ち着きましたが

傾眠傾向となっています

余命は数日と予測されました

 

 

ご主人と娘さんは交代で付き添われました

 

 

※ご主人や娘さんと看護師さんとのやり取りをカルテから拾ってみました

 

娘さんはご自分がどのように接していいのか苦しまれていました

Ns「我慢せず悲しい時には看護師を見つけて泣いてくれればいいよ。すべての涙はでないだろうけれど、そのあとお母さんのところに会いに行ってね」

 

Ns「今いっしょにいるこの時間を大切に過ごしてください」

娘「なぜお母さんのそばにもっといてあげられなかったのだろうとそのことばかり後悔してます」

Ns「おうちでお母さんを見守りお世話をされていたと伺っています。今もこのように過ごされていることをきっと喜んでいらっしゃるように思いますよ」

患者さんは看護師と娘さんの会話が聞こえているようで、反応するように呼吸が深く、多くなったりしている

Ns「お母さんには娘さんの声が聞こえているようですね」

娘さんは愛おしそうに頬ずりをされた

 

ご主人は娘さんに対して優先的にAさんのそばにいるように促されている

娘「お父さんはがまんしてる」

夫「病院に(再入院して)きて安心しました。気が張っていたのだと思います。自分がなんでもしないといけないって…」

 

娘「お母さんは抗癌剤治療を受けている間、とてもつらそうだった。もっとほかの治療を探してあげられていれば、もっと長くいっしょにいられたかもしれないって、どうしても自分を責めてしまいます」

娘さんはこのような後悔の言葉を何度も口にされていた

看護師さんたちはそのつど黙って話を聴きながら背中をさすったり、ともにケアをしたりして娘さんに寄り添っていた

 

Nsの記載:旅立たれたあとの悲嘆の強さが心配

せめてこのまま少しでも長くそばにいる時間がもてれば、悲嘆が軽くなるので

は?

この大切な時間をもっと持たせてあげられないだろうか?

 

ご家族は隣に座り声をかけながら音楽を流したり、昔の写真を見ながら思い出話をされている

娘「母は強くて芯のある、かっこいい人でした。お母さんのようになりたいです」

 

娘「看護師さんたちにいろいろな話を聴いてもらったから楽になりました。たくさん聴いてもらった。けれどどうしても自分を責めてしまうんです」

 

 

……いよいよお別れのときが近づいてきました

 

呼吸が浅くなっています

 

―――お母さんありがとう

お母さん大好きだよ

お母さんのような人になるからね

ずっと家族いっしょだよ

 

……Aさんは静かに旅立たれました

苦痛から解放されたような安心したお顔のようです

ご主人も娘さんもせいいっぱいのケアをされました

見ていて温かな家族の愛情を感じました

 

ある本に次のようなことが書かれています

 

“死にゆく人は、ただ世話をされるだけ、助けてもらうだけの、無力な存在ではない。彼らが教えてくれることはたくさんあるのだ”

“亡くなる人は遺される人に贈り物をしていくんです”

 

Aさんは私たちにたくさんの贈り物をしてくださいました

 

 

☆すべてのことをご自分で納得しながら決めてこられました

Aさんの希望はいっぱいありました

すぐには応えられないこともときにはあります

でもあきらめず繰り返し望みを話され

結局はAさんの希望通りになることがたくさんありました

辛抱していただくことももっとありましたが…

治療の内容のこと

食べ物のこと

退院の希望のこと

代替療法のこと

その他多くのこと

 

 

☆ご家族、とくにまだ若い娘さんに、ご自分の生きざまを示されたことでしょう

親子の間のことはわかりませんが、ご主人や娘さんの言葉の端々に感じることがあり

ました

…お母さんのような人になりたい

 

 

☆緩和ケアに携わる私たちに何が求められているのかも教えられました

医療の常識だけでは患者さんの幸せを叶えられないことがあります

「こんなこと無理だろう」という私たちの思い込みを捨てないといけないことがありました

そして患者さんやご家族を不安にさせない医療も必要でした

 

☆さいごに

「少しでも可能性があるなら闘いたい」というつよい意思

自分のために、そして家族のために…

 

297-01

Aさん、ありがとうございました

・・・つづきです

ここまで読んできて

何度も泣きそうになりました

 


チーム医療…

 

私が子宮癌末期の70代のIさんと話していた時、Iさんが初めて『もう一度家に帰りたい』と言われました。ご自分の予後を考えられたのだと思います。モルヒネの持続皮下注射を行い、これまでの治療や癌の進行により、子宮、腸管や膀胱、周囲の皮下に瘻孔形成していて、処置も多く、日常生活の全てにおいて介護が必要な患者様です。『難しい』希望ですが、聞き過ごす事は出来ませんでした。すぐに先輩看護師に伝えました。『よく聞いてきた!無理じゃない!どうしたら叶えられるか、皆で考えよう!絶対叶えよう!』と即答してくれ、主治医はじめ他職種含めスタッフを集めてくれました。この方法はどうか、こうしたらもっと良いのではないか、この組み合わせはどうか、などなど沢山の意見が出され短時間で外泊プランが立ちました。ご家族様にも十分な説明を行い、プランに納得を頂きと協力していただける事になりました。そして外泊当日、患者様は『いってきます』とピースサインと笑顔で病棟を出発。外泊中は病棟スタッフが訪問し、2泊自宅で過ごすことができました。患者様は、『帰れてよかった。ありがとう。』と手を合わせられました。外泊から戻られた翌日、意識レベルが低下。その後旅立たれました。ご家族からは『お母さんの気持ちを知っても、あのまま帰らずに病院で亡くなったら、私はこれから後悔しながら過ごしたかもしれない。帰れて良かった』と言葉を頂きました。(この患者様は、ご自宅が病院のそばであった事やご家族が交代で24時間付き添えたことなど条件がありました。)

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何通りもの解決策は、1人で考えられるものではなく、患者様を中心とし医師や看護師、その他、他職種スタッフが1つのチームになる事が必要で、チーム力無しでは良い医療や看護は提供出来ないことも実感しました。患者様の一言から行動することの大切さや、どのような状況でもチーム力が最善策を見つけてくれることを感じました。患者様の思いを1番に考えられるようになった時、自然に想いを伝えられるようになった事や、チームがあるから実践できる事に気付きました。

 

看護師1年目から、10年以上一般病棟で勤務し、個人としては終末期ケアを意識し取り組んできました。そして、当院で緩和ケア病棟が開設されました。いつか一般病棟でも自信を持って緩和ケアを行う為にも、専門的に緩和ケアの知識や技術を習得したい思いで一般病棟から、緩和ケア病棟へ異動しました。

 

一般病棟では、意識して終末期看護、家族看護を精一杯行なっていたつもりでしたが、いざ緩和ケア病棟で働いてみると、私は今まで何をしていたんだろうと思うくらい緩和ケア病棟での医療・看護は濃密で繊細で、あたたかいものでした。ここに来なければ分からなかったことが沢山ありました。

 

看護師個々の看護力や他職種のチーム医療への意識も高く、常に患者様ご家族様中心に事が進みます。患者様ご家族様が良い時間を過ごせるようにと考え、病室に足を運びます。

スタッフ皆、患者様ご家族様第一に思い、カンファレンスも1日のうちに頻回に行っています。その中で患者様にとっての最善策がみえ、いくつも医療・看護をタイムリーに提供しています。

 

※緩和ケア病棟では、医師に加え、担当看護師(患者様1人に対し主となる看護師が1人担当させていただいています)、他、管理栄養士、薬剤師、理学療法士、作業療士、言語聴覚士、ケアワーカー、MSWなど他職種含め、一丸となり、チーム医療を行っています。

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ドクターや看護師は患者様の隣で、ゆっくり話を聴きます。患者様が今まで治療ばかりで

言えなかったこと、辛かったこと、不安に思っている事、家族のこと、患者様やご家族の

話に耳を傾けます。患者様が話し出せない時も傍でその時間を一緒に過ごします。患者様やご家族様と時間を共有する中で、スタッフも笑ったり泣いたり。病室はご自宅のように患者様ご家族様でカスタムされ、お写真や絵画、ご家族様からのお手紙など、温かい雰囲気です。

 

『緩和に入ったらおわり』と言われる患者様がおられますが、“おわり”と言わず、まだまだ選択できることがあること、体が思うように動かなくても患者様の存在が大切な方の支えになっていることも知っていただきたいです。我慢や遠慮がなく患者様らしく生きるために緩和ケア病棟があります。『緩和に入ったらおわりじゃない』これからの時間を、どこで、誰と、どのように過ごしたいのか、最期はどのように迎えたいのか、患者様の選択をサポートしています。

 

緩和ケア病棟で担当になった患者様のお一人で、印象深い方がいます。

 

Nさんは一人暮らしで、息子様が2人おられますが遠方でたまに電話をする程度で普段の援助は得られません。骨転移、神経浸潤の影響で、頚部の痛みが強く、日常生活を送ることが辛いと感じて入院されました。また病院での最期を希望されていました。

 

入院後、まずは疼痛コントロールを試みました。しかし色々な薬を組み合わせたり、ケア

を施しても、なかなか痛みが軽減しなかった日もありました。『今日も痛みが取り切れなかった、1日つらい時間を過ごさせてしまった』と落ち込み、もっと楽に過ごせたんじゃな

いか、もっと考えて何か良い方法があったんじゃないかと思い、患者様に、謝る日もあり

ました。

 

ナースステーションでは、スタッフ達が何も言わずに肩を抱いてくれました。皆、気持ち

は同じだからです。1 人じゃない、チームなんだ、悩むより良い方法考えようと前向きに

また頑張れました。

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Nさんの希望で車椅子で散歩に外出し、病院から離れて、公園で過ごしたり、お買い物し

たり、コーヒーを飲んだりする時間も持てました。なかなか薬剤による疼痛コントロールが難しい中、散歩に行った日は痛みの訴えが少なく、夜も眠れている事をスタッフ間でも

認識しました。薬剤とお散歩の組み合わせが効果的で、ある時には「痛くないよ、こんな

こと今まで初めて。ありがとう」と笑顔で返事があったときは、一緒に喜びました。

 

それから病状の進行とともに、残された時間が少なくなっている事をNさん自身理解され、2人でこれからの事を話しました。「最後、辛くなったら眠らせて欲しい。自分はここで死にたいと思う。自分で判断出来なくなったら、あなたに任せてもいいか?息子達とは、今話しておきたい。」と言われました。その後、息子様とも色々な話をされたのだと思います。いよいよ、お体も辛いと感じるようになり、『もう眠らせてほしい』と言われました。病状からもそのような時期にきていました。『ただもう一度息子に会ってからとも思う』とも言われました。Nさんと相談して息子様達に会えた後、最期の時まで眠ることを決めました。すでに息子様にはNさんの病状をお伝えしていましたので、間もなくお1人の息子様が病室に到着。しかし、もうお1人の息子様はお仕事の都合上到着には時間がかかるということでした。数時間が経過し、『もう無理かな』とNさんが言うのです。息子様の到着にはまだまだ時間がかかります。スマホをビデオ通話にし、息子様のお顔を見て話してもらいました。お互いに何度も謝り合い、何度もありがとうと言われていました。私に、『電話ありがとう、お願いしてもいいかな。』と眠る事を希望されました。

 

数時間が経ち、Nさんは眠りの中、旅立たれました。

 

緩和ケアチーム一同、どんなに辛い状況であっても、1 日1 日を大切に患者様ご家族様に寄り添い、自己決定をサポートしています。

 

患者様にとって必ず明日が来るとは限りません。しかし、それは、全ての人にとってもい

えることです。病気だけでなく、震災、事故、いつどのようなことが身に起こるのかはわ

かりません。大切な人が明日いなくなるかもしれません。生きていることは当たり前では

ありません。死は、いつも身近にあります。最期のかたちはそれぞれ違うけど、人は必ず

その時を迎えます。

 

それでも今日1日を終え、今日が辛い1 日でも、「また明日」と、明日に誰もが希望と期待をもっています。

 

患者様ご家族様には、毎日、明日への希望が持てるように、今日が明日へ繋がるように、心を込めて看護したいと思っています。

 

患者様の苦痛や苦悩が軽減されるように。

 

思っていることを言えるように。

 

患者様らしく過ごせるように。

 

おいしくご飯が食べられるように。

 

今、会いたい人と会えるように。

 

ご家族様との時間が笑顔で過ごせるように。

 

季節が感じられるように。

 

何気ない日常を過ごせるように。

 

いま生きていることを感じれるように。

 

最期の時を穏やかに迎えられるように。

 

この世から旅立たれたあと、大切な家族が死別のからの悲しみと向き合えるように。

 

そのような医療・看護を緩和ケア病棟では大切にしています。

患者様ご家族様が、『また明日』と言えるように、全力でサポートしていきたいと思ってい

ます。

 

 

さいごに…

 

緩和ケア病棟での経験は看護師として大きな成長になりました。誰かの最期の瞬間に立ち合うという特別な職業、他にはありません。

 

看護師1年目の辛さや悩み、緩和ドクターやシスターの言葉が私の看護観・死生観の基盤にあり、1度は逃げ出したい思いを抱えていた私ですが、沢山の患者様ご家族様に、私という看護師を作っていただきました。信頼出来るチームにも出会え、こうして看護師を続けていられる事に心から感謝しています。

 

 

緩和ケア病棟の皆様、4年半、私をいつも支えてくださり、ありがとうございました。

 

看護師  S.H.

 


 

看護師さんには

とてもかなわないなあと…

 

その後にさらに次のようなメールをいただきました

 

――学生さんや若いスタッフには悩んでもいいことや、患者さんには緩和の良いところ、緩和に来てくれるスタッフには、スタッフの良いところが、伝わったらいいのですが…

 

Hさん、十分に伝わっていますよ

少なくとも私が書くような文章よりもはるかに

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このお便りをもって6冊目のブログ集を完成させたいと思います

締めくくりとして最適なお話になりました

 

Hさん、ほんとうにありがとうございました

これからもよろしくおねがいします