11月に2回開設にむけた説明会に参加し、今の到達点についてお話させていただく機会がありました。

ひとつは地域での説明会で34人の方が日が暮れてからの寒い中集まっていただきました。

もうひとつは神戸協同病院の待合室で開催しました。

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緩和ケアのそもそもと厚生労働省による病棟の施設基準、そして当院で検討中の入院基準案などを話しました。

以下はそのときの資料の抜粋です。

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合わせて印象に残った患者さんのことを伝え、一緒に考えてもらいました。

 

その時に出された質問です。

『入院の費用は? 保険は効くの?』

『入院の審査はきびしいのですか?』

『緩和ケア病棟に入院中にもう一度積極的な治療を患者さんが望まれたときは?』

『病棟が一杯(満床)のときはどうするの?』

などなどです。

原因疾患に関わらず終末期患者さんであれば入院が可能という「誤解」もありました。

 

ひとつひとつに丁寧に答えていく必要を感じています。

 

いよいよ工事が始まります。

そのときには入院患者さん、通院患者さんはもとより、地域の方々にも多くのご迷惑をおかけすることになります。

いろんな場面での説明会を開きながら、地域に根差す(下町の)緩和ケア病棟づくりに努力をしていきます。

 

 

 

 

看護を担当します、大谷です。

緩和ケア病棟開設に向けて研修に行ってきました。緩和ケア病棟とはどんな所なのか少し紹介させてもらいます。

緩和ケア病棟は治療の場とは違い、患者さんのペースで過ごせる場所です。家族、友人と思い思いの時間を過ごされ、好きな音楽を聴いたり、食事会をしたり、飲酒を禁止されていないため、嚥下障害のある方はビールを氷にして口にされていました。お誕生日のお祝いに外泊をして温泉で家族と過ごされる方もおられました。病棟はモニターの音、ナースコールの音のない静かな環境です。

そんな中、ボランティアさんが活動されており、一般病棟とは違った雰囲気です。お茶、お菓子のサービス、中庭や病棟の花の世話、看護師の企画するイベントの援助などをしてくれます。犬の訪問などもあり患者さんはいつもと違った顔を見せていました。患者さんは痛みなど様々な症状を持ち、病気の進行で色々な苦痛が出てきます。身体の苦痛以上に死に対する思い、死を迎えるまでの孤独や恐怖などの辛さを持っていました。普段、患者さんと関わる中で聞いたことのない思いでした。

症状をコントロールするために検査をし、症状を取るために必要な点滴もされていました。癌は全人的な痛みと言われていますが、この痛みを取り除くために医師、看護師、臨床心理士などの職種がチームで関わっていました。医師が入って毎日カンファレンスをし、最後まで患者さんにできることはないか考えられていました。

今回、紹介したのは緩和ケア病棟のほんの一部です。少しでも興味を持ってもらい、みんなで神戸協同病院の緩和ケア病棟を作っていけたらと思います。

緩和ケア病棟の看護を担当します、中西です。

現在は一般病棟で働きながら、緩和ケア病棟開設に向けての準備に取り組んでいます。今年、緩和ケア病棟がある他の病院の研修に参加してきました。今まで一般病棟しか経験のない私だったので研修で学ぶ緩和ケアへの考え方、症状緩和の為の薬剤の使用方法や看護に至るまで、すべてが今後緩和ケア病棟を開設するにあたって、とてもよい学びとなりました。

もちろん、今までも終末期の患者さんに関わることも多々あり、いつも患者さんやご家族に寄り添いたいという思いで看護してきました。しかし、一般病棟では検査や手術、様々な治療をされている方の対応に追われる為に、ゆっくり患者さんやご家族の思いを聞き、それに応えることに限界がありました。しかし緩和ケア病棟ではそれらをかなえる事ができます。

研修を終えて、人と人のつながりの大切さや命の尊さを改めて考えるようになりました。緩和ケア病棟は末期癌患者さんが「最期の時」までを精一杯、自分らしく生き抜く所です。私たちが作っていく緩和ケア病棟が最期に過ごす場所としての選択肢の一つとなれるよう、そして患者さん自身が様々な人生の決断をされる場面で、そっと支えられるような看護師集団でありたいと思っています。

最後に、緩和ケアに興味のある看護師の皆さん。まだまだ手探りの状態ですが、私たちと一緒に協同病院の緩和ケア病棟を作っていきませんか。

 

医療にたずさわっていると忘れ難い患者さんやご家族に出会うことがたくさんあります。

私にも印象に残った患者さんやご家族があり、その中でも思い出深いある男性Aさんとその奥様の話をしましょう。

Aさんは何年も肝臓の病気で通院されていました。最初はなぜか固い雰囲気を感じたのですが、実際に付き合ってみるといつもニコニコとして「先生こんにちは」と元気な声で診察室に入ってきます。彼の職業が一見そのような雰囲気を漂わせていたのでしょうか、すぐに親しい患者さんになりました。

たまたま受けた検査でがんが見つかりました。それからの約10年間、病気との闘いの連続でした。Aさん自身は闘っているという意識はなかったのかもしれません。けっして悲観的にはならず自分のことよりも家族への気遣いをいつも見せていました。

永遠の眠りにつく1年前、仕事中に手のしびれと首の痛みを覚えました。首の骨にがんが転移していました。当時通院していた大きな病院の医師の勧めもあり抗がん剤治療や放射線療法をはじめ様々な治療をうけましたが結局は手術が必要ということになったのです。その後腰の骨への転移も見つかり手術を2回受けました。さらに食欲が落ちて体力の低下から肺炎を合併し、つらい治療が延々と続いたのです。

 

――治療は家族のために

普段は明るいAさんも治療の連続で何度か気持ちが落ち込むことがありました。「もう自分はあかんと思う」と弱気な言葉を家族に告げることも何度かあったようです。でも奥様をはじめ息子さん、娘さんたちは励ましました。すると途端にAさんの表情がパッと明るくなるのです。

つらい治療だけれど家族のために受けることを決意したのでしょう、と奥様は後に語ってくれました。

そのとき阪神淡路大震災で焼失した家を建て直したエネルギーが蘇ってきたようでした。

 

――言わないといけない人の身にもなって

ふたりは主治医から突然「今年の夏まで持ちませんよ」と言われました。

病室にもどってから奥様は腹が立ってしかたがなかった。「パパ、厳しいことを言われたよね」何で急にそんなことを言うの?という思いが口調に現われたのか、その言葉を聞いたAさんは思いがけないことを告げました。

「ママ、患者にそのようなことを言わないといけない医者の身にもなってあげろよ」

この人はどこまでいい人なんだろうって奥様は思ったそうです。

手術後のリハビリも一生懸命に取り組みました。担当の理学療法士さんは「いつもニコニコされていますね。奥様もいっしょに笑って…」

看護師さんは嬉しそうに言います。「おふたりをみているととっても微笑ましく思います。用がなくてもAさんの部屋につい来たくなるのですよ」

 

――ずっと日記を

話は前後しますが、Aさんがいなくなってから奥様はずっと日記をつけています。今日はこんなことがあったのよ、こんなことを思ったのよと。

48年間ずっと仲のいい夫婦でした。

10代のときに駆け落ち同然の状態で一緒になり苦労もいっぱいしましたが、幸せな生活でした。心臓の病気をかかえながらもたくさんの子どもたちにもめぐまれました。

阪神淡路大震災では自宅は火災で焼失、近くの中学校に家族みんなで非難しました。しかしAさんは家族を無事に避難させると、すぐに近所の人たちの救援に駆け付けたのです。多くの男の人たちが避難所にとどまっているというのにです。とても男気のある人でした。

 

――これ以上の治療は難しくなって

主治医からは在宅での療養を勧められ、私のところに紹介されてきました。私は元気な頃のAさんの担当をしていたこともあり、時々スーパーなどでAさん一家と出会うこともあったのですが、久しぶりに出会ったAさんはやはり明るくあいさつをしてくれたのです。「先生久しぶりです。よろしくお願いします」

病状は芳しくないことを前医からの情報で知っていましたが、元気な顔を見てほっとしたものです。

でも病気は間違いなくAさんの体を蝕んでいます。ベッドの上で静かにしていると大丈夫なのですが、少しでも動くと痛みが襲います。「痛くないですか?」

「いえ大丈夫です。でも動くと痛いので痛み止めを飲んでいます」

麻薬の副作用対策のための吐き気止めや便秘の薬などたくさんの薬を飲まれていました。また鎮痛補助薬という作用の薬も出ています。これらの薬のためか時々うとうとされるのですが、話しかけると笑顔で返事をしてくれました。

往診の開始です。

 

――よく知った病院だから安心して入院できた

幾度か往診をさせてもらいましたが、痛みと眠気のコントロールが難しくなり提案をしました。

「いちど病院に入院をして症状のコントロールをしませんか? 落ち着けばまたお家に帰ってきましょう」

Aさんは了解してくれました。

入院は私たちの病院に決まりました。

「いままでよく知っている病院で、先生も看護師さんも親しい人だから安心でした。そして幸せでした」と奥様はのちに振りかえっておられます。

この日には帰ろうねって約束し、目標にむけて頑張ったのに病気の勢いのほうが勝ったのです。

 

――手をにぎって!

子どもたちが集まってきました。

Aさんは一人ずつ病室に呼んで話をします。

「俺が病気になって家族みんながまとまったなあ」

息子さんは「自分がパパのかわりになったほうがどれだけ楽か…」涙を流し続けます。

でも奥様にはとくに話はありませんでした。

実は遠くに逝ってしまう4日ほど前、ふたりだけのとき、「旅立つ時にはつよく手をにぎってな」とお願いされていたのです。

とてもしんどそうにしていた日などには「パパ、今夜は泊ろうか?」と訊ねると、子どものように嬉しそうに笑ってくれました。

 

――家族みんなで体を拭いて

とうとうお別れです。

娘さんは職場でお休みをもらい付き添っていました。

息を引き取ったあと、家族みんなでAさんの体をきれいにしました。ゆっくりと、ていねいに…。

奥様は自宅で療養していた頃のことを思い出しました。

何かがきっかけだったのでしょう。ある人に嫌な顔をしたことをAさんに指摘されました。

「人にしてあげたことは忘れてもいい。だけど人からしてもらったことは絶対に忘れちゃだめだよ」

「これがパパの遺言だったと思います」

 

いつもパパのことを思い出します

とても優しいひとだった

いつも笑顔だった

男気のあるひとだった

……

 

――生きられなかった時間を、自分が

「やっぱり人は生きて来たように死んでいくんですね」

奥様は遠い目をして話されました。

「夜ひとりで寝ていると、急に目覚めることがあったの。天井に白いものが見えてきて、その白いものに体が包まれるの。とってもあったかいものに…。あれはきっと…」

 

……亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚……

――長田弘詩集“詩ふたつ”あとがき より

 

Aさん、あなたのもっとあるべきだった時間を私たちが引き継いで生きていきたいと思います。

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私たちが準備を進めている緩和ケア病棟では、ほとんどの施設がそうであるようにがんの患者さんが対象です。

がん検診の是非に関しては様々な議論が行われていますが、実際にがんと診断された患者さんやご家族と話をしていると、進行した状態で発見されるよりも早期に診断されたほうがはるかにメリットが多いと感じています。

ある検査や治療法についてEBMに基づき予後に優位差がないと言われていても、一人ひとりの患者さんのこれからの人生を考えるとEBMから判断された方針を提示することに説得力をもたせることはなかなか困難です。

そういう理由で私たちは医療生協の組合員さんたちに積極的に健診を受けていただく運動をすすめています。そのために健診料金をできるかぎり抑えたり、何人か集まれば送迎を行ったりと様々な工夫をしています。

しかし、みずからすすんで健診を受けようという意識の高い人は多くありません。「胃カメラは苦しいと聞いている」「症状もないのにわざわざ病院にいく時間がとれない」など理由はいくらでもあります。

たしかに病院は一種の「ブラックボックス」です。そこでは何が行われているのかわからない、意味不明の言葉を医師や看護師が使っている、検査は痛いのじゃないかなどなど。

そこで私たちは健診ってどんなもの? どのような検査が行われているの? 医師の診察って? などの疑問に答えようとDVDの作成に取りかかりました。

もうすぐ完成の予定です。撮影も登場人物も病院の若手職員(大半は20歳代)中心です。彼・彼女たち感性に驚いています。

出来上がれば病院のホームページにもアップする予定です。

kenshin

 

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