昨年の8月のブログで

認知症に関連した内容を

少し書きました

 

その後「認知症サポート医」の研修会にも参加

いろいろと勉強になっています

 

“日常の暮らしの場面では「生活そのものをケアとして組み立てる」ことが望まれる”

具体的な支援のあり方として

環境の変化をできるだけ避けて、それまでの暮らしが継続されるよう配慮することなどが強調されていました

 

 

しかし日常の忙しい医療の現場では

なかなか学んだことが十分に生かされていないことに

モヤモヤしたものを感じています

 

 

そんなとき

ある本に出会いました

長谷川式スケールの開発者である

長谷川和夫先生の書かれた本です

『ボクはやっと認知症のことがわかった』

という題名です

image001

読み進めるうちに

多くの感銘をうける文章に出会いました

 

 

とくに次のふたつには心を動かされました

 

認知症の本質は「暮らしの障害」です

―――周囲の接し方次第で、障害の程度はずいぶん軽減できます

 

という文章がありました

 

また

人間は、生まれたときからずっと連続して生きているわけですから、認知症になったからといって、周囲が思うほど自分自身は変わっていないと思う部分もあります。そもそも認知症になったからといって、突然、人が変わるわけではありません。昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいます

 

ここに述べられた「連続」という言葉、あるいは「切れ目のない」と言いかえてもいいのかもしれません

私が今かかわっている緩和ケアの分野にも共通するものでしょう

 

 

5年前に私たちの病棟を立ち上げた時

「コンセプト」が大事だということになり

3つを考えました

http://kobekyodo-hp.jp/kanwacare/concept.html

 

そのひとつが

“切れ目のない医療の中での緩和ケアを追求します”

でした

急性期、慢性期、リハビリテーション、外来、在宅、介護

と連続した医療/介護のなかに

緩和ケア病棟を位置づけたいと

考えました

 

患者さんやご家族は

それぞれの人生の途中で

私たちの病棟にこられました

 

その時間だけを

切り取ってのケアではなく

 

一人ひとりの連続した人生の中での出会いを大切に

おもてなしをさせていただくことが

私たちの役割りなんだと

提案をした

当時のことを思い出しています

(実際にはどこまで行えているかは自信がありませんが…)

 

 

 

また同じ本のなかで

私がもっとも感銘を受けたお話があります

掲載をさせていただきます

 

 

長谷川先生の同僚の方が書かれたものだそうです

 

公園を歩いていた小さな子が転んで泣き出しました。

すると、4歳くらいの女の子が駆け寄ってきました。

小さな子を助け起こすのかと思ってみていたら、

女の子は、小さな子の傍らに自分も腹ばいになって横たわり、

にっこりと、その小さな子に笑いかけたのです。

泣いていた小さな子も、つられてにっこりとしました。

しばらくして、女の子が「起きようね」というと、

小さな子は「うん」といって起き上がり、

二人は手をつないで歩いていきました――。

 

というお話です

 

先生は

「これは、ケアを必要としている人と同じ目線の高さに立つということです」と

述べられています

 

 

今の私に必要なことは

これなんだと気づきました

 

 

忙しさの中に

埋没してしまいそうになる日常

 

戒めとして

大事にしたいことです