100歳を目前にした患者さん

吐血と肺炎で入院されました

その時の検査で治療が不可能な癌が見つかりました

 

この年になるまで一人暮らしをされていました

ご本人は自宅で暮らすこと(=自宅で最期を迎えること)を望まれました

病院のスタッフ、ケアマネジャーさん、ヘルパーさん、訪問看護師さん、それに知人も加わっての相談です

「何とか望みをかなえてあげましょう」ということで退院となりました

 

ヘルパーさんは一日4回の訪問、加えて訪問看護と訪問診療(往診)です

そして患者さんの知人たちが入れ替わり立ち代わり面倒をみてくれることになりました

 

2週間と少し自宅で暮らすことができました

食事は数口、お茶も数口

それでもうれしそうです

 

一方ではいつ息を引き取られるかもしれないということを想定しての打ち合わせをしっかりとしていました

 

そして…早朝

静かに息を引き取られました

朝のヘルパーさんが発見され、往診依頼をうけました

穏やかなお顔でした

 

現在2025年を目前に控え、「地域包括ケアシステム」の議論が盛んです

私も勉強をしています

そのときに次の文章を目にしました

(いろんなところで引き合いに出されていることを後で知りました)

 

『地域包括ケア研究会 地域包括ケアシステムの構築における今後の検討のための論点 平成24年度』から

――地域包括ケアシステムを支えていく重要な要素として「本人と家族の選択と心構え」について触れておく必要がある。2025年には、単身又は高齢者のみの世帯が主流になることを踏まえると、仮に十分な介護サービスを利用し、地域社会の支えが十分でも、従来のような、常に誰かが家の中にいて急変時には救急車で病院に搬送され、病院で亡くなるといった最期ばかりではなくなる。むしろ、毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある――

 

この文章を目にした時とても大きな違和感を感じました

先ほどの患者さんは自ら望まれて自宅での最期を迎えられたのですが、そのことを支える人たちの努力や不安(急変されたときにどうすればいいの? 自分が訪問した時にもしも息が止まっていたら・・・? など)が様々にありました

そのことへの配慮を抜きにした「選択と心構え」といった一種の「脅し」を感じたのです

当然患者さんご本人の不安も相当あったことと思います

 

地域包括ケア「システム」という限りは国も一定の責任をもった保障がいるのではないかと思うのです

別の文章には、支える要素として「自助」「互助」「共助」「公助」があげられ、気をつけないといけないのは、この順番を間違えるなと言っていることです

これでは患者さん、ご家族、地域の不安は深まる一方のような気がします

 

私たちの緩和ケア病棟は地域の中での役割を自覚しながら日々の実践を重ねています

多くの人たちと力を合わせながら(当然、その中には行政も含まれるでしょう)、経済的な不安がなく、必要な医療や介護が連携し切れ目なく保証され、誰もが安心して住み慣れた地域でくらせるケアを目指したいと思っています

私たちが所属する「医療福祉生協連」には、“昨日よりも今日が、さらに明日がより一層意欲的に生きられる。そうしたことを可能にするため、自分を変え、社会に働きかける。みんなが協力しあって楽しく明るく積極的に生きる”という健康観があります

そしてそのもとに「いのちの章典」をもうけています

http://www.hew.coop/about/shouten_zenbun

日常的に病棟で勤務していると自分自身の視野が狭くなっているんじゃないかという気持ちにとらわれることがあります

当然目の前の患者さんやご家族に寄り添い、苦痛を取り除くお手伝いをすることが第一義的な課題なのですが、ともすれば自分は今どの位置に立っているんだろうと足元が不安になることもあります

そのときに上記の「健康観」を思い出すのです

緩和ケアの対象の方々はしだいに病状が進み、病棟で最期を迎えられる場合が多いです

そんなとき、「より一層意欲的に生きられる」ってどういうことだろう?

「自分を変え……楽しく明るく積極的に生きる」とはなんだろう?

と立ち止まってしまいます

緩和ケアの現場は私たちの「健康観」とは異なる世界ではないだろうと感じてはいるのですが……

今はまだ自分の納得のいく解答が得られていませんが、今後の実践と思索の中で折り合いがつけれればいいなあと思っています

084-01

 

(5)

年末の特別寒い日、彼女の母が入院してきた。
実家から5時間かけて、父に付き添われて。
久しぶりに目にした母の姿。
「お母さん、こんなに年をとっていたのかしら」
大好きだった母が、痩せて腰が曲がり、歩くときには父に手を引かれながら…

カルテを見た。
驚くような結果が書かれていた。
貧血が進行し、肝臓や腎臓の働きが正常の半分になっていた。
「今回の入院が最後となる可能性が高い。どのようにご本人やご家族に説明をするのがいいのか?」
たった一言の主治医の記録に衝撃を受けた。
――お母さん、ごめんなさい
ずっとしんどかったんだね
私、そのことに気づかずにいい気になって…

指導医に私も担当をさせてください、とお願いした。
主治医でもある指導医は、肉親が担当になるのは客観的な対応ができなくなり、よくないのだがと難色を示した。
しかし何度も頭を下げ、指導医と一緒の時に診察や検査をするという条件付きでOKとなった。

指導医の診察に付き従った。
母は輸血を受けて幾分顔色が戻っていた。
疲れた目で指導医の後にいる娘を見つけてほほ笑んだ。
目が曇り、娘は思わず指導医の背中に顔を隠した。

その日の夕方、指導医は彼女の母と父を前にして病気の説明とこれからの方針、そして考えられる予後などの説明を丁寧に行った。
彼女は当然同席していた。
意外と冷静に話を聞くことができている自分に驚いた。

面談のあと、家族としての立場で母の部屋を訪れた。
「頑張っているようね」
「・・・」
「どうしたの、疲れているの?」
「・・・」
「私は心配ないから、あなたは自分の役割をきちんと果たしなさいね」
「…うん」
「お父さんは晩ごはんを食べてくるって言って出て行ったわ」
「そう、一緒に食べようと思っていたのに」
「お父さんのことをお願いね。強がってはいてもほんとは弱虫なの」
「親子だものそんなことわかってるって」
「そうね。親子だもんね」

それからは医師の仕事の話やこの街での生活、友達のことなどいつもの母と娘の会話になった。
1時間ほどして父が戻ってきた。
ちょうど夕食の時間がきたので、毎日顔を見せるねと告げて彼女は引き上げることにした。

その後の1週間は小康状態を維持していた。
次の週に母は呼吸困難を訴えるようになり、レントゲン撮影で胸水が溜まってきていることが判明した。
その次には再び貧血が進行、時々38度の熱も出るようになった。
倦怠感が強いにもかかわらず、母はトイレは自分で行くことにこだわった。
「下の世話までしてもらうと自分が自分でなくなるように思うの」

腎臓機能が一層悪化してきた。
この時点で主治医は再度母と父を前にして説明を行い、治療の選択についてどうしますかと尋ねた。
「先生人工透析はできないのですか?」
ずっと黙っていることができず、彼女は思わず口出しをした。
「う~ん、透析ね。たしかに今のお母様の腎機能を見れば透析の適応はあるとおもうけど」
あまり積極的な話し方ではない。
「ただ今後の経過を予測すると、その選択が最良かどうか…」
言葉を濁す。
「先生、私はつらい治療をこれまで十分に受けてきました。もう寿命が長くないことは自覚しています。だからこれ以上はもう…」
「お母さん何を言ってるんだ。まだ頑張れるじゃないか」と父。
「でもねお父さん、これ以上みんなに迷惑もかけられないし」
「迷惑だなんて思っていないよ、お母さん」と今度は娘。
本人の了解が得られない状態で話は終了した。
もういちど家族で話し合ってみようということになった。

面談が終わってから、彼女は父を廊下に呼び出した。
「お父さん、お母さんとはどんな話をしているの?」
「簡単な話しかできていないんだ」
とても正面から話すことができないと父は言う。
「男の人って態度でわかるとよく言ってるけど、決してそんなことはないんだよ。たくさんの患者さんを診ていて思うんだ。言葉できちんと伝えなくちゃ。絶対に後悔するんだから」
娘の強い調子に父親は驚き、「お前はつよくなったな」とつぶやいた。
「私は昔から強かったよ。お父さんが知らなかっただけ」
「…そうか」と告げる父もまた母と同じように小さく見えた。

翌日母の病状が急変した。

 
(6)

 

朝、看護師が訪室すると意識状態が低下していたのだ。
父と娘が駆けつけた。
「お母さん!」
「しっかりして!」
呼びかけにうっすらと目を開ける母。

手をにぎる父に、
「お父さん病気ばかりして迷惑をかけてすみませんでした」
「・・・」
「お父さん!」
娘の声にはっとした。
「私のほうこそ… 今までありがとうな…」
涙声になっていた。

娘を見つけては、
「母親らしいことは何もしてあげられなくてごめんね」
「…わたしは…、お母さん、病気であってもただここにいてくれるだけでいいんだよ」
高校2年生のときに「いつも通りのあなたでいいの。そのままでいいのよ」と言っていた母の言葉を自分が言うことになろうとは…。
彼女の前には遠い過去の情景が浮かんでいた。

――医師としては失格かもしれない
でも私はお母さんにいつまでも生きていてもらいたい
透析を受けて少しでも寿命が伸びるのならそれでもいい
これが私の間違いのない本音
たとえ患者さんやご家族には違うことを話しても、私の思いはこうなの

最後には母の強い意思により、鎮静を選択。
その3日後に母は旅立った。

四十九日を済ませた。
父は田舎での一人暮らしを選んだ。
大人になった少女は、医師としての研修を大学病院で続けている。

経験を積んだ少女がどの道を進むのか、終末期医療の道を選ぶのか、あるいはまったく異なる進路の選択をするのかは今後の課題となろう。

 

(おわり)

(4)

 
ほぼトップクラスの成績で卒業した彼女は、内科の研修医として大学病院での仕事を開始した。

その年の初夏の頃の出来事。
30歳の女性がかかりつけ医から紹介されてきた。
病名は「不明熱」。原因のはっきりとしない熱が毎日のようにあるということで入院して精密検査をすることになった。
入院後に患者が訴えることがどんどん増えていった。
「胸が痛い」「腹が痛い」「下痢が止まらない」などなど。
考えられる検査をすべて済ませてもどこにも異常は認められなかった。
困り果てた主治医は医局でのカンファレンスでの検討に任せることにした。
ある医師は患者が体温計をお湯につけているようだと報告した。
別の医師は患者が市販の下剤を飲んでいる疑いがあると述べた。
確かに主治医である若い男性医師が症状がでるたびに呼び出されて、患者の元をなかなか離れられないという場面も見られていた。
医師たちは患者を「ミュンヒハウゼン症候群」ではないかと考えた。

ミュンヒハウゼン症候群とは、「他人の愛情・関心を得るために虚言や詐病を繰り返す病気であり、特に頭痛やめまい、吐き気・腹痛などの身体的症状を強く訴えるという特徴がある」と言われている一連の病態である。

医師や看護師たちはこの診断の結果により患者を精神科に移すという方針を立てた。

研修医となって3ヶ月、彼女は患者の病室を頻繁に訪れていた。
他の医師たちが言うような「体温計を湯につける」「下剤をかってに飲んでいる」という行動が本当なのか患者の生活を見ていて疑問を持っていたのである。
会話をしながら周りを見てもそのような証拠が見当たらず、日を変えて何度訪室しても同じであった。

ある日患者の母親という女性が面会に来ていた。
「はじめまして、お母様ですか?」
声をかけると、彼女は慌ててなにかをバッグに収めていた。
「あ、ああ、先生ですか。娘がお世話になっています」
明らかに動揺したしゃべり方であった。
母親は「私はこれで失礼します。娘のことをよろしくお願いします」と挨拶もそこそこに帰っていった。
「あわただしい母ですみません」
「お母様は時々いらっしゃるのですか?」
「はい、2日に一度は来てくれます」
「優しいのですね」
「いつも私のことを気にかけてくれて、我が家で受け継がれている『秘伝の薬』を持ってきてくれるのです」
「あなたはそれを…」
「はい毎日寝る前に飲んでいます」
「特効薬なのかな、参考までに私にも見せていただけますか」
女性患者は引き出しの中を探っていたが、「あら、なくなっているわ。お母さん持ってくるのを忘れたのかしら」
先ほど母親がバッグにあわてて入れていたものが気になった。
次に来られたときに見せてもらうことを約束してその日は話を終えた。

その数日後「秘伝の薬」が判明した。
それは薬とはまったくの別物であり、どちらかと言えば体にとっては毒物ともなるような物質であった。
病歴をあらためて精査すると、患者の病気の背景には必ず母親の存在があることが浮き彫りになった。
患者の問題ではなく、むしろ母親の問題、「代理ミュンヒハウゼン症候群」であったのだ。
娘が病気であるという「事実」を作り上げ、不幸な出来事を生み出し、人を支配しようとしていたのだ。

この出来事以来、研修医である彼女の評価が抜群に上がったことは間違いない。
彼女も自分に大いに自信を持った。
医師としての仕事が面白くてしょうがなかった。
同時に母の病気のことを忘れる日が増えていた。

私は優秀だと思い込んでしまったのである。

 

(2)

 
少女の母は、家から近い地域の小さな病院に入院した。
病名は不明。
以前から自覚していた腰痛の悪化と微熱が改善しなかったために入院することになったと父から知らされた。

「私がお母さんに無理ばかり言うものだから、お母さんは病気になっちゃたの?」
少女は母の病気の原因の一端が自分にもあるのだと思っていた。

授業が終わると友人との会話もそこそこに母の入院している病院に急いだ。
今日は元気そうですよと受け持ちのナースに説明を受けて病室のドアをノックする。
元気なときの母の返事が返ってきた。
「毎日ありがとうね、無理しなくていいのに」
「だいじょうぶ。私がここに来たいんだから、お母さんは気にする必要なんてないんだよ」

母の病気は町の病院では診断がつかないまま経過していた。
いちど父親といっしょに医師から説明を聞く機会があったが、腰の痛みは年齢的なものでしょうということだった。
――でもお母さんはまだ40代だよ。それなのに年齢的なものって…
少女は担当医の説明に不満足だった。
――じゃあ熱がでるのだって年齢的なものなの?
その後に行われた検査結果の話にいたってはまったく理解できなかった。
覚えているのは「血液検査で何かひとつ異常に高い数字が出ている」ということだった。

熱が出ている時の母はとても苦しそうだった。
37度台のときはまだ会話ができたが、日によっては39度まで上がることもあり、その時に面会に行っても声をだすことがやっと。それでも少女の顔を見ると笑顔で迎えてくれた。そのようなとき少女にできるのはただ静かにベッドのよこに置かれた椅子に座り、母の顔を眺めることだけだった。
「毎日来なくてもいいのよ」
母は決まって同じ言葉で少女を迎え、少女は「いいのいいの、私はお母さんが大好きなんだから」と同じ返事を繰り返していた。

父は仕事が忙しく帰りに立ち寄っているようなのだが、少女と出会うことはほとんどなかった。
そのことを何気なく不満に思っていたのだろう、少女が無意識に口に出したことがあった。
「お父さんは仕事が大切な時期なの。お父さんが働いてくれているおかげでお母さんもここにこうして入院していられるんだから」

少女は受験を控える学年になっていたため、生活の援助を父方の叔母にお願いしていた。
少女は叔母が苦手だった。
生活態度を口うるさくチェックされ、友人を自宅に招くと嫌な顔をされた。自然と会話の頻度も減り、必要最小限の言葉かけだけになっていた。

「叔母さんとは仲良くできている?」と母に聞かれると、「だいじょうぶだよ」と答え、それでも心配顔をされたときには「私だってもう大人なんだから」と笑って付け加えた。

ある日担当の医師が「相談があります」と母と父を呼び、少女も同席させてもらうことになった。
医師は「悪性の血液の病気のようです。このような小さな病院では必要な検査ができず、治療も困難です。私の出身大学には専門の医師がいます。そちらを紹介しますので受診してください」と告げた。
――お母さんは病院をかわらないといけないの?
先生の出身大学ってどこ?
私は面会にいけるのかしら?

大学病院は少女の住む地域から電車で5時間ほどかかる関西圏の県庁所在地にあった。
――今までのように学校帰りに立ち寄れる所じゃないんだわ
少女は母と離れざるを得なくなることでとても不安になった。
しかし母の病気を1日でも早く治すためには我儘を言ってるわけにもいかず、やむを得ず遠くの病院に送り出すことになった。
転院には父が付き添って行くことになった。

大学病院に入院している間は叔母との生活を耐えなければいけない。
大事なお母さんのためだもの、これくらいのことは我慢できるわ。

母は3か月間の入院で、病気も判明し、治療もうまくいったと教えられた
でも再発の可能性は高く、今後も3か月ごとに大学病院には検査のために通わなければいけなかった。
――お母さんが帰ってくる
これからは私も家のお手伝いをいっぱいしよう

少女は元気を取り戻した

そして迎えた高校の最終学年。
少女は医学部への進学を決意した。

 
(3)

 
最後の高校生活で少女は逞しく成長した。
母の病状への気遣いを心の奥深くかかえながら、医学部受験のための勉強に没頭した。
一方では友人との付き合いも関係を壊さない程度に行う術を身につけた。
父は娘の決意を察し、母が入院(年に2回ほど入院をしていた)のため自宅にいない期間は叔母に依頼をすることで、娘が家事から開放されるよう腐心してくれた。
母が待っていない家は少女にとってとても寂しい場所であったが、目的の達成のため辛抱することも覚えた。

田舎の高校から現役で医学部に合格することは過去には数えるほどしかなく、少女がいくら成績優秀であるといっても簡単に受かるとはだれも思っていなかった。
しかし翌年の春、少女は見事志望校に合格した。
入学することになったのは母が入院をお願いしている病院を併設している大学であった。
――やっとお母さんの治療に一歩近づくことができた

実家から離れて初めての一人暮らし。
必要なものはすべて一人で揃えた。
生活の拠点であるワンルームマンションも自分で決めて、契約した。
同級生たちは母親や父親と一緒に買物に行くことが普通であったようだが、羨ましいという思いはなかった。

初日はオリエンテーションで始まった。
女子学生は4割くらい。
さすが都会の大学、多くの女子はコーディネイトもすごいなと思った。
少女は地味なスーツで参加。

一通りの説明が終わり、休憩時間にちょっとした出来事があった。
バッグから文庫本を出して読んでいると、人の影に遮られた。
「はじめまして。君一人?」
怪訝な顔をしていたのだろう、目の前に立った男子学生は少しこわばった笑顔を作りながら、「僕も一人なんだ。ところで君、付き合っている人はいるの?」
いきなりの不躾な質問に無視しようとふたたび文庫本に目を落とすと、彼は何だという態度で離れていった。
これから医学を学ぼうとする人間がなんという軽薄さなんだろうと呆れ返っていると、隣に座っていた女子学生が、「気にしないで。かわいい女の子を見かけると、あいつはいつもあんな態度なんだよ」と話しかけてきた。
この女子学生とは今後親友となるのだが、それはもう少しあとの話である。

大学生活のスタート。
しかし授業は魅力的ではなかった。
出欠だけはしっかりととられるので休むわけには行かない。
苦痛に感じながらもまじめに授業を消化し、単位を取得していった。

それでも学生生活は初めてのことばかりで、少女にとっては心躍ることがたくさんあった。
誘われてサークルに2つ入った。ともに運動系のサークルで、うち1つはマネージャーも兼任した。
当然のようにアルバイトも始めた。週2回家庭教師を引き受けた。
時には合コンというものにも参加した。他大学の男子学生の友人も複数できた。
1年間は授業の合間にたくさんの経験をした。
母が大学病院に入院してきたときには毎日病室を訪れ、学生生活の楽しさをいつまでも話し続けたのである。
母はそんな娘の生き生きとした表情に目を細めながら、「たくさん経験することがあなたのためになることだから頑張ってね。もちろん勉強もよ」とアドバイスしてくれた。
父は入院のたびに付き添ってきたが、娘の生活に干渉するつもりはないと言った。
――お父さん、ずいぶんと丸くなったね
気分のいい時には両親はそろって街にでかけ、ふたりだけのデートを楽しんでいるようであり、少女はそのような姿を見るにつけこの大学に入学できて本当によかったと思うのであった。

2年生に進学した。
これまでの講義形式の授業に加えて実習が始まることで忙しくなったが、サークル活動やアルバイト、友人たちとの買い物や合コンには熱中していた。

少女はひとりの大人の女性として成長していたのである。

その頃から母との関係に微妙な変化が生じるようになっていた。
母の病状は相変わらず一進一退がつづき、年に2回は入院治療を要していた。
入院時にはいつもどおり面会に行くのだが、授業が忙しい、サークルやバイトが忙しいと長い時間母のもとにいることはなくなってきた。
とくに5年生になると臨床実習といって病院での実地の訓練が始まり、ますます面会が疎遠になっていった。
母は「無理をしなくてもいいのよ」と気遣ってくれ、ついついその言葉に甘えてしまう娘であった。

6年間の勉強が終了し、無事に国家試験にも合格。

彼女はついに医師=研修医となった。