ある少女のお話

ここに載せた一文は患者さんの終末期を考えるときの素材として、私が経験したり、見聞きしたことに若干の脚色を加えて構成しました。

テーマ(というほど大それたものではないのですが)は、「最期の看取りを迎えた家族の思い」とでもしましょうか。
不治の病を抱えた患者さんのご家族がその日を迎えるまでには長い道のりがあります。
患者さんもご家族もずっと同じ感情が続くとも限りません。
私自身これまでの自分の家族との付き合いを振り返ってみて、反省することがたくさんあります。
このようなケースもあるんだと思って書きました。

長い文章であり、ブログにはふさわしくないのかもしれませんが、何回かに分けて書いていきます。
可能であればお付き合いください。

 
(1)

 
少女は母が大好きだった。
中学の3年生になるまで母と同じ布団で眠ることが常で、そのぬくもりを感じると何ともいえない安心感が体全体を満たしてくれた。

地元の高校に進学した少女の成績はトップクラスであった。
定期試験の結果が出るたびに友人たちの誘いを振り切って急いで母のもとに駆けつけ成績表を見せると、母はいつも穏やかな眼で「そう、よかったね」と微笑んでくれるのだった。
彼女の成績が優秀である理由の一つに、厳格な父の存在があった。
父は学年で1番や2番をとることがさも当たり前という顔をいつもしていた。
少しでも結果が悪いと、大声を出すわけではないが、機嫌が悪くなって眼を合わせてくれなくなることを多感な少女はわかっていた。

温和な母と厳しい父。
きょうだいはいなかった。
友人たちは兄や弟、姉や妹がいたが、彼女は母が自分を出産するときに生死の境をさまよっていたことを親戚の人から聞いていた。
彼女は妹が欲しかったが病弱な母にはとてもお願いする勇気をもてなかった。
母は1年のうち4分の1は床に伏していた。

高校2年生の初秋、次のようなエピソードがあった。
放課後友人たちと図書館で過ごすのが習慣であったが、ある日帰ろうとして靴箱を開けると封筒が入っていた。
――なんだろう?
次のような文章が几帳面な字で書かれていた。

「僕は1年生の○○です。この高校に入学してすぐにあなたを見かけました。いきなり胸の高まりを覚えたのです。もしよければ僕とお付き合いしてください。OKしていただけるなら明日の夕方5時に海沿いの堤防で待っています」
手紙には丁寧な地図が添えられていた。
ごく簡単な文章だったが、○○という名前には記憶がなくどう受け止めればいいのか困惑していた。
母には隠し事をするのがいやだったので、手紙を見せることにした。
母は、「まあ、あなたに関心をもってくださる男の子がいるのね。率直な文章で好感がもてそうね。いやでなければ指定されている堤防に行ってみればどうかしら」と少女の頬を両手で包んでくれた。

その場所は少女の家から自転車で7~8分の所にあった。
少し早めに家を出たが、途中で足がこわばってしまいそれ以上ペダルを踏むことができなくなってしまった。やむを得ず自転車を降りて押しながら目的地に向かった。
いざ堤防が見えてくるとふたたび足がすくみ、近くにあった小屋の陰に身を隠してしまった。
時計の針が5時ちょうどを示したとき、青いセーターを着た小柄な男子が歩いてきた。
――どうすればいいのかしら
少女は迷いながらも小屋の陰から出ていくことができず、じっと男子の様子をうかがっていた。

男子はあたりを見回し、だれもいないことがわかると腕時計を確認しているようであった。
それから落ち着かない様子で堤防の周辺を行ったり来たりしていた。
少女はその姿を瞬きも忘れて見つめていた。
1時間ほどそうしただろうか。しだいに夕焼け空にかわってきた。
男子はもう一度腕時計に目をやり、肩を落とし、もと来た道を帰り始めた。
何度も後ろを振り返りながら、ゆっくりと…。

少女は男子の姿が見えなくなってから正確に30分待ってやっと小屋の陰から出てきた。
安堵と申しわけなさが入り混じった感情をかかえて自転車を押した。
――私ってどうしていつもこうなんだろう… 肝心な時に勇気がなくて…

自宅では母が待ってくれていた。
心配そうな母の顔を目にしたとたんに、一気に涙があふれてきた。
母の胸に顔をうずめながら声をあげて泣いた。

「お母さんごめんなさい。私ってダメな人間だよね」
「いくらでも泣いていいのよ。悲しい時にはけっして我慢しなくてもいいの」
まぶたを晴らしながら母の顔を見上げた。
母は何があったのか説明しなくてもわかってくれていると確信した。
「私、どうすればよかったのかな?」
「いつも通りのあなたでいいの。そのままでいいのよ」
たった一行の短い言葉で少女の胸は軽くなった。
「体がこんなに冷たくなって。あたたかいコーヒーを淹れるからいっしょに飲みましょう」
とくに何も話す必要はなかった。
この夜は久しぶりに母の布団に入り、安心して眠ることができた。

その翌日、母は入院した。

高齢のご夫婦がいました

奥様が入院され、ご主人がずっと泊まり込みで付き添われています

 

痛みが強くなり、徐々にモルヒネの持続皮下注射の量が増えてきました

それでも夜は眠られています

…ご主人がそばにいて安心なのかもしれません

 

日に日に弱ってこられているのがだれの目にも明らかになってきました

 

ご主人を含めたご家族と話し合いました

 

病状は厳しくなってきていること

薬の量が増えていること

今後起こりうると思われること

などをお話しました

 

いくつかのやり取りの後、沈黙が続きます

 

しばらくしてご主人が恥ずかしそうに口を開きました

「実は、この前嫁さんに聞いたんや。俺と一緒になって幸せだったか?って」

「そしたら嫁さんは『よかったよ』って言ってくれた」

私も看護師さんもそれはそれはという感じでうなづきます

 

娘さんがそのあとを引き継ぎました

「父は母と一緒になれたことで幸せをすべて使い果たしたと言っていました。それくらい幸せなのでしょう」

申しわけないのですが、聞いていてとてもこちらが恥ずかしくなるような微笑ましい関係のご夫婦です

思わず「奥様にも直接話されたのですか?」

「話したよ」とご主人

 

10代で所帯をもたれたお二人

長い年月いろんなことがあったことと思われます

 

患者さんは付き添われているご主人の姿が見えなくなると、途端に不安な表情になります

ほんとに大好きなふたりなんだと実感しました

私たちは患者さんの病状と同時にご主人の体調にも心を配りながらお二人のケアを続けています

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日曜日の午後ずっと待っていた面会者がきてくれました

患者さんの会いたいという希望、面会者も患者さんが家からいなくなって寂しがっていたそうです

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この子のなまえは“くーちゃん”といいます

とっても人懐っこくて、初対面の私のそばにすぐに寄ってきてくれてあちこち舐めまわされました

 

「(ブログに)顔を出してもいいですよ」

と言っていただいたので、さっそく仲良しの写真をとらせていただきました

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くーちゃんはすごくうれしそうです

患者さんご夫婦も幸せいっぱい

目にはひとすじの…

緩和ケア病棟の開設前から「ペットの面会はどうしましょう」と話し合いを行い、一定の条件付きではありますがOKすることになり、基準を作成しました

(資料を参照してください)

なかなか来てもらえる機会がなかったのですが、このたび面会デビューが実現しました

これからももっともっと患者さん・ご家族の希望にお応えしていきたいと思っています

(参考:基準の抜粋)

緩和ケア病棟では、患者様が会いたいと強く望まれているペットのみ、面会が許可されている。

希望されている方には、ルールを守っていただけるよう、十分な説明と理解・協力が必要。

また、ほかの患者様やご家族の迷惑とならないようにも配慮する。

・ペットの基本は犬

・ケージを使用

・土曜日・日曜日の14時~16時の間

・・・・・・

等々です

――その他細かな決め事を定めており、守っていただくことになっています

 

 

病棟で節分の豆まきをしました

豆は「落花生」です

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一部屋ずつ「鬼」と「福」がたずねていきます

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いきなり部屋におじゃましたのでけげんな顔をされる方もいらっしゃいました

あとになって「ああ、○○さんだったのね」と一安心

普段むずかしい顔をされることの多い患者さんは、このときは満面の笑みを見せてくれました

「鬼はそと! 福はうち!」

豆(落花生)をぶつけられた鬼は逃げ出します

全部のお部屋をまわった鬼と福は息切れをしてました

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この写真はボランティアさんたちが準備してくださったぜんざいです

すべての行事に病棟看護師やその他のスタッフとともにボランティアさんたちの力が生かされています

ところで「節分」は、季節の変わり目ごとにあります

その季節の変わり目の前日が「節分」と呼ばれています

一年の始まりは「春」です

春の始まりが立春であり、その前日が「節分」となって、2月3日がとくにメジャーになったようです

――ここからの一年がいい年になりますように

との願いを込めて

患者さんたちにとって一日一日がいい日でありますように……

 

 

病棟の受け持ち看護師さんからお亡くなりになられた患者さんのご家族にお手紙を送らせていただいています

ご返事をいただいたり、それ以外にもご家族から手紙が届いたり…

 

今回開設間もないころに入院された患者さんの娘さんからいただいた手紙を、ご本人の了解のもとご紹介させていただきます

 

―― 2015年7月に母が亡くなり、早いもので半年が経ちました。12月半ば、生きていれば82歳の誕生日。大好きだったイチゴのショートケーキを買い、遺影の前に供えて花で飾り小さくお祝いしました。

あっという間の6か月。日々の生活の折々は寂しくなりましたが、でも、いつも一緒にいる気持ちです。毎日、私の作った食事を供えて、一緒に食べて、話しかけて・・。

こんな時、こんなこと言うだろうなぁ・・などと思いながら、過ごしています。

 

体調がすぐれなくなった週末の3日間泊まり込み、4日目、一旦、帰宅した翌朝に亡くなり、最期のときに傍にいてあげられなかった、会えなかったことへの自分自身の納得できない気持ちは、たくさんの方々に言葉をいただいても、今もなお、心のどこかに住みついています。「もっとこうしてあげたらよかった」さらには、「もっと早く気づいてあげられなかったのか・・」と、今なお自問自答しています。本当は、母はどう思っていたのか・・今となっては、知るすべがありません。

 

毎日、病院から帰るときに「帰るね」と言うと、決まって「(駅まで)広い道、通って帰りよ」「明るいとこ、通って帰りよ」と、いつも気遣ってくれた母。

また、帰るときに「ありがと」と言うので、私も「ありがとう」と言うと、「なんで、あんたが『ありがとう』言うの?」と言うので、「『ありがと』って言ってくれて、ありがとう・・」というと、なんだか微笑んでいました・・。今までずっと、私の世話ばかりをしてきた母に少しでも役に立てたような気がして。「ありがとう」・・そう言ってくれる母が嬉しかったのです。

 

先生や看護師さん、外科病棟、緩和ケア病棟の方々をはじめ神戸協同病院のみなさまに、81年の母の人生の最期を支えていただき、本当に感謝いたしております。

いま、一人になった私を気遣い、周りの方々からのメールやお手紙で、近況を尋ねてくださったり、「遊びに行こう」と誘っていただいたりと、たくさんの方々に「支えられている」毎日を感じています。

心にぽっかり空いた穴を、まだまだ埋められずにいますが、毎日を元気に過ごすことが、きっと母への供養になると思い、たくさんの楽しい報告ができるよう努めていきたいと思っています。

ありがとうございました。 ――

 

 

娘さんは毎日仕事の帰りに病室に立ち寄られ、遅くまで付き添われていました

ときには泊まり込まれて…

「母ひとり、娘ひとり」の生活を送ってこられていました

とても大切なお母様だったのだなあと、毎日の様子からうかがうことができました

 

お手紙をいただいてお礼の電話をさせてもらいました

元気な中でもときに声が小さくなります

でも、たくさんの友人やお知り合いが声をかけてくださるそうです

 

悲嘆は簡単には解決しませんが、私たちはつねに寄りそっていきたいと思います