うまくまとめることができるか不安がありますがAさんをめぐってのたくさんの出来事がありましたのでお話として残しておきたいと思います
主な登場者はAさん(患者さん)、Bさん(奥様)、Cさん(担当の看護師さん)、そして私です
このお話をブログに載せることについては奥様からの了解をいただきました
(1)Aさんとの出会いまで
ある日のことです、食事をしていてつかえる感じを覚えました
しかし病気と結びつけるほどの症状ではなく時々あっても仕事の忙しさにまぎれて忘れていました
翌年のこと毎日のように食べ物が飲みこみにくくなり、近くの医院で胃カメラを受けたAさんに「食道癌です」と突然の病名が告げられました
すぐに大学病院に紹介され治療を開始することになりました
担当の医師から説明を受けたAさんは手術よりも抗癌剤での治療を選択
Bさんはといえば手術をうけてほしいと思っていましたが、Aさんの選択に任せることにしました
その準備をしていたところ、あることがきっかけで感染症を発症、また出血を伴い一時ショック状態に陥りました
ICUに入り生命の危険性もある状態だったようです
Bさんもあきらめかけていたある日
突然Aさんからメールが届きました
奇跡が起こった!!
意識が回復したのです
それからは抗癌剤治療と放射線治療の開始です
またその時期胃婁を作ることになりましたが、Aさんはすでにその覚悟を決めておられ、「よかった」と話されたそうです
翌年になり
声がだんだんと出にくくなってきました
腫瘍が気管を圧迫してきたのです
医師から気管切開のお話がありました
今まで自分で決めてきたAさん
このときばかりは激しく動揺されました
「食べることができないのはまだ我慢ができるけど、声を失うことは……」
葛藤されるAさん
Bさんは「私は心を鬼にして手術を受けてほしいと言いました」と後に話されました
心を決めたAさんに対して
その日にすぐ手術です
受け持ち看護師のCさんは次のように語ってくれました
「ある日突然話すことができなくなってしまった。もし自分に降りかかっていたら、もしかすると生きる希望を失っていたかもしれないような急激な変化と経過。それでもあきらめずに、心が折れることなく最期まで前を向いて生き抜いた姿勢を見て、こんなに強い精神力を持った方がいるのかと驚くと同時に、Aさんに出会えてよかったと感じました」
Aさんは3つの苦難を経て私たちの病棟に移ってこられたのです
ひとつは突然の告知、ふたつめには決意した治療が遅れたこと、みっつめは気管切開の決断です
(2)Aさんの人柄について少し述べておきます
会社を経営していたAさん
仕事一筋で決して愚痴を言わなかったそうです
責任感がつよく、面倒見のいい人でした
奥様や子どもをとても愛しておられました
病院では、何度も危機的な状況になりましたが慌てず悲観的にならず、いつも前向きな姿を見ていました
私たちスタッフには紳士的で、「ありがとう」じゃなく「ありがとうございます」とのお返事をされます
声を出せないためコミュニケーションは、顔の表情と身振り手振り、そしてホワイトボードを使っての会話です
ひらがなでいいところなのに一生懸命漢字を選んで思いや考え、感想などを伝えてくれます
ボードの裏にはスタッフ全員の名前を書いていました
一方では頑固な一面もありました
制限のある面会時間を延ばしてほしいという意見やケアに必要な物品へのこだわりがあり、ここまで頑なに希望を主張されるのはAさんにとって譲れない一線だったのだと思われます
そのことに対して看護師さんたちはAさんの納得のいくまで向き合ってくれました
(3)入院後何が起こり、Aさん・Bさんと私たちは何をしてきたのか?
たくさんの身体的な苦痛に直面しました
■痛みは癌の患者さんの8割が経験するといわれています
Aさんも入院時から痛みに悩まされていました
主には気管切開部を中心にして、腫瘍による痛み、周辺の炎症に伴う痛み、ときには心理的な痛みも加わっています
医療用麻薬、NSAIDs、鎮痛補助薬などを基本に返って学びなおしながら使ってきました
新たな痛みが出現するたびに和らげる方法をみんなで考えます
癌イコール医療用麻薬ではありません
ときには神経障害性の痛みを疑い補助薬の使用で改善することがあります
医療用麻薬のケミカルコーピングを疑った出来事もありました
その都度Aさんの訴える内容(ホワイトボードに書かれたこと)を大切にしながら、今度はこんな方法で対応していこうなどと意思統一してきました
■出血にも悩まされました
腫瘍からの出血があり、気管カニューレからなのか、口からなのか、あるいは気管切開部の周囲なのかなどを探りながらの対策です
止血が困難なときがありあきらめかけたときも、緩和ケアの姿勢――まだ何か方法があるはずだとこだわって、考えられる手段を試みなんとか止血にこぎつけたことがあります
■呼吸困難は避けられない苦痛です
唾液や血液の気管内への流入、肺炎や気管支炎による痰の増加などきりがありません
頻繁な痰の吸引が求められます
そのときの苦しさは経験しないとわからないものですが、声を上げられないAさんにとってはもっと辛いことでした
それでも処置の後には笑顔で「ありがとうございます」と書いてくれます
申し訳なさの気持ちとともによくなればいいですねと声をかけます
痰がつまりやすくなり
気管カニューレの頻繁な交換を余儀なくされました
あるときホワイトボードに何か書かれました
「最近じょうずになりましたね」
ご自分の苦しさよりも私の処置を気遣ってくれたのです
■Aさんが元気でいることの保証は胃婁からの栄養補給です
「体重を維持したいから栄養剤を減らすことはいやです」
体重がAさんにとっての元気のバロメーターなのです
私は感じました
生きたい、そのために頑張るということがAさんの生命線――絶対に守りたい大切な限界――であったのだと
こだわりがAさんの特質のひとつでした
Bさんもパートナーとしてその点にはこだわられていたように思います
■癌の進行とそれに伴う様々な苦痛という理不尽な状況に置かれてもなお、生きようとされる姿勢をみました
一生懸命にホワイトボードに書いてご自分の言葉を伝えようとされました
分かってもらいたい一心だったと思います
ある本からの引用です
――「あなたが伝えたいことは、こういうことですね」という返答の仕方
――力になれないと感じても逃げないで関わりつづけること
――患者さんは忙しそうな人にはとても話かけられない
――そばでじっと耳を傾け聴くことによって「手を伸ばせばあなたがいる」と言われる人になりましょう
辛いことを支えるためにはだれかがそばにいないといけないのです
ひとりで頑張るには限界があります
ふたたびCさんの言葉です
「Aさんが納得いくまで向き合おうと思いました。どんなに時間がかかっても、筆談の訴えを遮ることなく、誠意をもって傾聴に徹底することに努めました。Aさんはどんなにつらくても、感情に任せて声を荒げることすらできないのです。筆談に書かれる内容はAさんの心の叫びだと思って接しました。不満や感情を吐き出す機会を私は奪いたくなかったのです」
私はAさんの思いに応えることができたのか、その答えはまだわかりません
たくさんの支えがありました
Cさんが書いています
「奥様はとても献身的で、だるくなった足のマッサージをしながら二人の時間を過ごされていました。奥様は自分のできることとできないことをしっかりと見定めて、自分の生活も守りつつ、ご家族を最大限にサポートされていたと感じました。声をかけさせていただいたとき、奥様もあまり弱音を吐かない方で、揺らがない自分を保ち続ける強さがある方という印象をもちました」
Bさんは毎日決まった時間に面会にこられます
コロナ禍での制限ある面会時間を、有効に使われ、Aさんのマッサージをしていました
Aさんのストレスがたまってきたときのこと
散歩がしたいという希望が出されました
病棟のスタッフ全員でカンファレンスをもち、リハビリ目的という位置づけであればいいでしょうという結論になりました
さっそく準備の開始です
看護師Cさん、リハビリの理学療法士さん、そして私も付き添っていきました
長田の名所である鉄人広場です
そこで奥様Bさんと合流しました
リハビリについても述べます
ご自分でトイレに行くことがAさんのアイデンティティでした
でも病状悪化や眠剤の影響があり転倒されたのです
Aさんの意思を考えリハビリの介入が始まりました
理学療法士さんもAさんと仲良くなることに努めてくれて、廊下を一緒に歩くほほえましい姿と何度か出会いました
(4)私たちはAさんとどのようにつながりをもってきたのか?
さいしょに看護師Cさんのまとめから
「Aさんはどんなに苦しい処置の後でも、看護師を呼び止めて筆談で『ありがとう』ではなく、『ありがとうございます』と書いてくれます
苦しい処置も笑顔で握手を求めてくれていました
私はどんなときでも、Aさんの筆談と握手を受け取れるように、その数十秒を大切にできるように日々の関りで意識して接していました」
後日ご自宅に伺い私からBさんにお伝えしました
繰り返しのところもありますがご容赦ください
「ホワイトボードの裏にみんなの名前を書いて、日に日にそれが増えていくことをAさんも私も楽しみにしていました
苦痛でしかない気管カニューレの交換、さいごには週2回になりましたが、Aさんからは『交換がじょうずになりましたね』とOKサインをいただきとてもうれしい言葉でした
いつも終了後には手を出されて握手をされるのです
いちばん記憶に残っているのは、みんなで鉄人広場に行った時のことです
(そのときの私の印象に残った写真を2枚お渡ししました)
コロナ禍の中でも実現できよかったなあと思っています」
(お二人のなれ初めも聞かせていただきました)
Aさんの言葉から
『少しでも長生きがしたいです』
『言葉を話すことができればなあ』
『贅沢は言いません、生きているだけで…』
『できるだけ栄養を摂って体重を維持したい』
『まだ食べる意欲はありますよ』
『短時間でも家に帰りたいんです』
『自分の死期が近いと思う、身辺整理がしたい、たとえ半日でも短時間でも』
その後にご家族と時間をとって面会していただきました
亡くなられる1か月前のこと
ゆっくりと話がしたいと声をかけられました
『穏やかに過ごしたいんだけど思うようにはいかないね』
『あと14~20日ですね』
このことに対してわたしはAさんといっしょにお正月を迎えたいですと話しました
『それは先生しだいですね』と笑顔
治療の開始が自分の責任でない理由で遅れてしまったことをさいごまで悔しがっていました
Bさんからも後日にくやしさや悲しみを交えてお話を聞かせていただきました
いよいよお別れのときです
ご家族が付き添われています
「小さくなったね、でも頑張って私たちを待っててくれてありがとう」
ご家族は看護師さんとともに体をきれいにし、準備されていた洋服を着せました
ダンディーなAさんです
ご家族とCさんは思い出話をしながら
「痩せちゃったね」「前はすごく肥えていたのにね」……と
Aさん、Bさんとの出会いからお見送りをするまで多くのことを教えられました
一言では言い表すことは難しいのですが、あえて言えば
悩んで、とことん考えて、みんなで話し合って、患者さんやご家族にとっての今できる最善の方法を選んで行動する
という当たり前のことでした
Aさんは厳しい現実に向き合い、Aさんなりの人生を見つけていかれたのだと確信しています
その生きざまに触れることができ、感謝の念に堪えません