7年目の日がやってきました

地震や津波によって犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます

被災された方々、心からお見舞い申し上げます

 

原発の問題がいまだに解決に向わないことに腹立たしさを感じています

 

一日でも早く穏やかな日常が戻りますように…

 

1995年阪神淡路大震災を経験した私たちは

当時全国からの支援をいただき

あたたかい心に感激しました

そのお礼と感謝の気持ちをこめて、東北の支援に向いました

長期間のお手伝いとなりました

私も5月に休みをいただき(その間の仕事は同僚から援助をいただきました)、

仙台の坂総合病院を拠点として、約1週間滞在しました

 

その際の報告を病院やその他の機会にさせていただくことがあり

報告の一部を当時のことを振り返る意味でも

このブログに載せておきたいと思います

 

(以下の文章は当時の記録のままです)

 

―――わたし自身の経験から(2011年5月記録)

  • フローレンス・ナイチンゲールの言葉

〝看護が意味すべきことは、新鮮な空気、光、暖かさ、清潔さ、静かさの適切な活用、食物の適切な選択と供給――そのすべてを患者の生命力を少しも犠牲にすることなく行うことである〟

  • 実際に話をして感じたこと

「行ってみないと現状はわからない」「見てみないと生活はわからない」「話してみないと人の心はわからない」ということに尽きます

1)「行ってみないと現状はわからない」

比較的自由な時間があったので何か所か訪ねてみました

七ヶ浜、野蒜、石巻、仙台の中心街202-01

写真の上半分は七ヶ浜(坂病院からもっとも近い場所)、下半分は仙台の駅前です

*七ヶ浜は三方を海に囲まれており、海沿いに7つの集落があることからここの名前がつきました

のり、わかめ、あさりなどが特産品で、県内有数の広さを誇る菖蒲田

海水浴場や明治時代からの歴史を持つ高山外国人避暑地があるところです

しかしその面影は完全に消えてしまいました

202-02

これは海水浴場だったところです

サーフィンするのには最適な場所だったと聞きました

202-03

七ヶ浜では震災前に出来たばかりの火力発電所があります(未稼働)

石巻へは東塩釜まで電車が通っていますが、そこからは代行バスです

石巻市街地は水が引いたあとのヘドロが除去されていましたが、臭いと砂ぼこりがひどい状況です

途中の野蒜地域は重油のために運河が真っ黒で片づけもこれからという状態

高校生たちはバスを利用しての通学ですが、夜になって真っ暗なバス停 にひとり降り立つ女子高校生をみていると何とも言えない気持ちになりました

202-04

石巻の街中は閑散としており、歩く人は支援にきている人ばかり

車がとおるたびに砂ぼこりが舞い上がります

信号は所どころ壊れ、全国から来た警察官が立って誘導していました

兵庫県警からも来ていました

 

2)「見てみないと生活はわからない」

①避難所での生活

・ホコリ(文化センターは土足、換気装置からグラスファイバーのような

ものが落ちて来る:知らずに口にしていた?)

咳が続いていた人が場所を代わっただけで咳が止まった

・プライバシー上の問題

段ボールで壁を作っている所、荷物だけで境界線を決めている所、まったく何もない所など様々でした

それぞれに理由があるのでしょうが一番気になったのは文化センター

大ホール脇の階段を降りた一番下に妊婦さんがいたことでした

・風呂は二駅むこうの多賀城駅前に自衛隊の風呂があり、そこまで入りにいきます

それでも足湯は喜ばれていました

・ペット同伴が可能な部屋はありますが、そこからもあふれた人が他の場所にまじって生活しています

  • 医療へのアクセス

近くには医療機関も多く、受診は比較的容易のようです

しかし、家の片づけを優先している人、受診しようにもお金のない人、

頻繁には受診ができない人、かかりつけが遠くの病院のため足の確保

が困難な人、風邪くらいと我慢している人 など事情は様々です

医師会との関係から坂病院が積極的に介入することは難しいとのこと

当面の薬も処方可能な日が限定されており、ほとんどは避難所にある

市販薬で済まさざるをえません

基本は受診を薦めるということのようです

■仮設住宅の状況:支援に入った人たちからの聞き書き

すでに仮設住宅への入居が始まっています

「なんでも相談」(5月末)の宣伝に入って話をされた人たちからの情報

を整理しておきます

・立地状況によっては買い物や医療機関受診に不便

通う手段がない

イオンが買い物客のために車を出すとのこと

・経済的な不安

家のローンが30年ある  家の再建のため二重ローンのおそれ

仮設は「2年まで」(阪神淡路大震災のときは4年半残る)

生活必要製品はそろっているが、水光熱費はすべて自前

払えない人たちの存在…>いずれは出ていかざるをえない(?)

「炊き出しなどは自立を阻害する」ということからできなくなる

・コミュニティ

阪神大震災の教訓から地域のコミュニティを維持する努力がされ

ている

しかし「避難所のほうがよかった」という声もある

賑やかさが減った

自治会の必要性

民医連の共同組織はあるが力が弱い

・日常の困りごと

夏にむけての衣類がない:多くが着の身着のまま

支援物資の衣類

蟻がたくさん発生している仮設がある

・今後の見通しがどうなるのか不透明

*自衛隊の状況(若い隊員に聞く)

多賀城駐屯地が近くにある

津波被害あった

隊員がひとり亡くなった

幾人かの遺体を見た

休みはあるがしばらくはまとまった休日はない(連休など)

各地からの支援も今後なくなる

(足湯に必要なお湯は自衛隊に頼っていたが、午後7時半までとなっ

てしまった)

202-05

*全国の自治体からの応援(奈良県の人の話)

1週間ごとに交代で来ている

避難所でともに暮らしている

6月から引き上げることになる

 

3)話してみないと人の心はわからない

――具体的な話から――

  • 70歳代の女性、30歳の長男、27歳の次男の3人暮らし

「わたしは高血圧と糖尿病があり、左目は失明しています。手術も何回

か受けており、薬の種類もたくさんです。

地震のときにはかかりつけの病院にいて助かりましたが、そこにも津波がやってきて小学校に避難しました。最初息子たちとは連絡がとれず、

1週間後にやっと携帯がつながりました。ふたりとも無事でした。

津波のあと自宅に行き、薬は見つかりましたが波に洗われていたため洗って飲みました。

メガネを無くしてまだ作ることができません。髪の毛(真っ白)も染めたいのですがそれも叶いません。

わたしは身障のため病院までのタクシーは無料で助かっております。

幸いにも家からは夫の遺骨と愛猫(20年生きた)の遺骨を持ち出すことができ一緒に避難所にいます。

夫は喉頭がんで、最期は頸動脈にも侵潤して出血して亡くなりました。

最後のとき「わしの骨はおまえたちのそばにおいてほしい」と言われていたので見つかったときにはほっとしました。猫も家族同然でした。

避難所は2回代わりましたよ。最初の所ではたまたま血圧計を持っていたので心配されている人には測ってあげ『だいじょうぶだよ』と励ましてあげました。

仮設住宅は申し込みません。どこになるかわからなく病院への通院が不便だと思います。じぶんだけでなく息子たちのためにも…」

息子さん「わたしは長男ですが、弟といっしょに毎日夜まで家の片づけに行っています。ボランティアさんにお願いすれば、という声もありますが、大事なものを捨てられてしまう心配があるので自分たちでやっています。ある程度片がつけばお願いすることも考えています。

今後は近くでアパートでも借りようかと相談中です。弟は未熟児で御覧のように身体は小さいです。津波が来たときにはうちにいました。

屋根伝いに隣の家に移させてもらいましたが、弟は力が弱く自分ひとりでは昇ってこれません。なんとか引き上げることができました。彼は腎臓の一方が機能していなく、もう一方も半分の働きしかなく、いずれは透析か腎移植だろうと言われています。内臓全体が小さいのです。だから病院通いがかかせません」

優しい息子さんたちでした。

  • 75歳のひとり暮らし女性   ホール観覧席の椅子を利用して寝ていた

「わたしは津波で3時間水の中に浸かっていたのよ。左で大切なものが入ったバッグを持ち、右ひじで雨樋にしがみついていたの。まわりから『がんばれ、がんばれ』という声が聞こえてきたけど意識が時々遠くなって、車なんかがどんどん傍を流れていくのが見えたわ。『わたしは泳ぎに自信があったので流れていく自動車に飛び乗ろう』と思ったけれどそうしなくてよかった。自衛隊の船に助けられ坂病院に入院しました。体温がずっと下がっていたようなのね。でも3日で退院できたわ。家は残っていたので友人たちが家具をくれたの。だから家にいずれは戻ろうと思っている。朝日新聞の人がやってきて『あなたのことを記事にしていいか』と聞くので『いいよ』と答えて新聞にも載ったよ。今やっと笑うことができるようになったわ。助かってよかった、と思ってる。これまではひとりでやってきたけど、これからはあせらないで生きていきたい。ひとりでは生きていけないのよね。みんなの力の支えがこれほど大切だと人生初めて経験したね。いっしょに暮らしていた猫は助からなかったけど、里子の猫をもらおうかな?」

話をうかがいながら一緒に泣きました。さいごにはともに写真を撮らせていただきました。

  • 息子さんとの二人暮らしの女性  70歳代くらいか

「津波ですべてのものを無くしました。持ち出せたのは財布とカバンとオーバーだけです。家には自動車が3台突っ込んできてガソリンの臭いが充満しています。40歳台の息子は会社が津波でなくなり、解雇されました。今ハローワーク通いです」

(大震災に伴う失業者数は全国で45万~65万人:5/17日本総研)

  • 2週間前に高熱があり、解熱はしたものの咳と痰が続いている男性

かかりつけ医受診を何度かすすめてやっと受診、抗生剤の処方をしてもらう。しかし、症状はつづき坂病院でレントゲンを撮ってもらうことをすすめたが再度同じかかりつけ医に行き、薬を継続、レントゲンは撮らず。2日まえからは一緒にいる妻に発熱、咳が見られるようになる。感染症が心配です。

 

日本は災害の多い国です

地震や津波、火山の噴火、台風や気候の大きな変動 などなど

私たち自身の備えだけでは十分ではありません

ひとたび災害が発生すれば

国がどれだけ国民の命や財産と生活を守り、保障するのか

被災地の復興に国が責任を果たすことが大きく問われています

 

日に日にその思いを強くしています