医療にたずさわっていると忘れ難い患者さんやご家族に出会うことがたくさんあります。

私にも印象に残った患者さんやご家族があり、その中でも思い出深いある男性Aさんとその奥様の話をしましょう。

Aさんは何年も肝臓の病気で通院されていました。最初はなぜか固い雰囲気を感じたのですが、実際に付き合ってみるといつもニコニコとして「先生こんにちは」と元気な声で診察室に入ってきます。彼の職業が一見そのような雰囲気を漂わせていたのでしょうか、すぐに親しい患者さんになりました。

たまたま受けた検査でがんが見つかりました。それからの約10年間、病気との闘いの連続でした。Aさん自身は闘っているという意識はなかったのかもしれません。けっして悲観的にはならず自分のことよりも家族への気遣いをいつも見せていました。

永遠の眠りにつく1年前、仕事中に手のしびれと首の痛みを覚えました。首の骨にがんが転移していました。当時通院していた大きな病院の医師の勧めもあり抗がん剤治療や放射線療法をはじめ様々な治療をうけましたが結局は手術が必要ということになったのです。その後腰の骨への転移も見つかり手術を2回受けました。さらに食欲が落ちて体力の低下から肺炎を合併し、つらい治療が延々と続いたのです。

 

――治療は家族のために

普段は明るいAさんも治療の連続で何度か気持ちが落ち込むことがありました。「もう自分はあかんと思う」と弱気な言葉を家族に告げることも何度かあったようです。でも奥様をはじめ息子さん、娘さんたちは励ましました。すると途端にAさんの表情がパッと明るくなるのです。

つらい治療だけれど家族のために受けることを決意したのでしょう、と奥様は後に語ってくれました。

そのとき阪神淡路大震災で焼失した家を建て直したエネルギーが蘇ってきたようでした。

 

――言わないといけない人の身にもなって

ふたりは主治医から突然「今年の夏まで持ちませんよ」と言われました。

病室にもどってから奥様は腹が立ってしかたがなかった。「パパ、厳しいことを言われたよね」何で急にそんなことを言うの?という思いが口調に現われたのか、その言葉を聞いたAさんは思いがけないことを告げました。

「ママ、患者にそのようなことを言わないといけない医者の身にもなってあげろよ」

この人はどこまでいい人なんだろうって奥様は思ったそうです。

手術後のリハビリも一生懸命に取り組みました。担当の理学療法士さんは「いつもニコニコされていますね。奥様もいっしょに笑って…」

看護師さんは嬉しそうに言います。「おふたりをみているととっても微笑ましく思います。用がなくてもAさんの部屋につい来たくなるのですよ」

 

――ずっと日記を

話は前後しますが、Aさんがいなくなってから奥様はずっと日記をつけています。今日はこんなことがあったのよ、こんなことを思ったのよと。

48年間ずっと仲のいい夫婦でした。

10代のときに駆け落ち同然の状態で一緒になり苦労もいっぱいしましたが、幸せな生活でした。心臓の病気をかかえながらもたくさんの子どもたちにもめぐまれました。

阪神淡路大震災では自宅は火災で焼失、近くの中学校に家族みんなで非難しました。しかしAさんは家族を無事に避難させると、すぐに近所の人たちの救援に駆け付けたのです。多くの男の人たちが避難所にとどまっているというのにです。とても男気のある人でした。

 

――これ以上の治療は難しくなって

主治医からは在宅での療養を勧められ、私のところに紹介されてきました。私は元気な頃のAさんの担当をしていたこともあり、時々スーパーなどでAさん一家と出会うこともあったのですが、久しぶりに出会ったAさんはやはり明るくあいさつをしてくれたのです。「先生久しぶりです。よろしくお願いします」

病状は芳しくないことを前医からの情報で知っていましたが、元気な顔を見てほっとしたものです。

でも病気は間違いなくAさんの体を蝕んでいます。ベッドの上で静かにしていると大丈夫なのですが、少しでも動くと痛みが襲います。「痛くないですか?」

「いえ大丈夫です。でも動くと痛いので痛み止めを飲んでいます」

麻薬の副作用対策のための吐き気止めや便秘の薬などたくさんの薬を飲まれていました。また鎮痛補助薬という作用の薬も出ています。これらの薬のためか時々うとうとされるのですが、話しかけると笑顔で返事をしてくれました。

往診の開始です。

 

――よく知った病院だから安心して入院できた

幾度か往診をさせてもらいましたが、痛みと眠気のコントロールが難しくなり提案をしました。

「いちど病院に入院をして症状のコントロールをしませんか? 落ち着けばまたお家に帰ってきましょう」

Aさんは了解してくれました。

入院は私たちの病院に決まりました。

「いままでよく知っている病院で、先生も看護師さんも親しい人だから安心でした。そして幸せでした」と奥様はのちに振りかえっておられます。

この日には帰ろうねって約束し、目標にむけて頑張ったのに病気の勢いのほうが勝ったのです。

 

――手をにぎって!

子どもたちが集まってきました。

Aさんは一人ずつ病室に呼んで話をします。

「俺が病気になって家族みんながまとまったなあ」

息子さんは「自分がパパのかわりになったほうがどれだけ楽か…」涙を流し続けます。

でも奥様にはとくに話はありませんでした。

実は遠くに逝ってしまう4日ほど前、ふたりだけのとき、「旅立つ時にはつよく手をにぎってな」とお願いされていたのです。

とてもしんどそうにしていた日などには「パパ、今夜は泊ろうか?」と訊ねると、子どものように嬉しそうに笑ってくれました。

 

――家族みんなで体を拭いて

とうとうお別れです。

娘さんは職場でお休みをもらい付き添っていました。

息を引き取ったあと、家族みんなでAさんの体をきれいにしました。ゆっくりと、ていねいに…。

奥様は自宅で療養していた頃のことを思い出しました。

何かがきっかけだったのでしょう。ある人に嫌な顔をしたことをAさんに指摘されました。

「人にしてあげたことは忘れてもいい。だけど人からしてもらったことは絶対に忘れちゃだめだよ」

「これがパパの遺言だったと思います」

 

いつもパパのことを思い出します

とても優しいひとだった

いつも笑顔だった

男気のあるひとだった

……

 

――生きられなかった時間を、自分が

「やっぱり人は生きて来たように死んでいくんですね」

奥様は遠い目をして話されました。

「夜ひとりで寝ていると、急に目覚めることがあったの。天井に白いものが見えてきて、その白いものに体が包まれるの。とってもあったかいものに…。あれはきっと…」

 

……亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚……

――長田弘詩集“詩ふたつ”あとがき より

 

Aさん、あなたのもっとあるべきだった時間を私たちが引き継いで生きていきたいと思います。

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