以前にも書いたことがあるかもしれません

それでもいまここに記しておきたいことがあります

                                                                             

                                                

私のとても親しくしていたひとのお話です

彼女はがんサバイバーでした

みずからも病いとたたかいながらの出来事です

                                                   

                                             

昔からの友人ががんの終末期ということで入院しました

                                                 

彼は毎日のように襲ってくる痛みや吐き気に対して医療用麻薬を使っていました

わがままな人であり、看護師さんや医師の言うことを聞かない「困った」患者さんとしてみんなから見られていました

                                               

自分の弱さを易々と他人には見せるものかという悲しいプライドと、激しさを増す痛みや苦痛、死への恐怖、一人で(彼は離婚し独り身でした)病気と闘わざるを得ないという心細さなどなど

きっとこれらのことがごちゃまぜになって、医療者にとっては「手のかかる患者」としての姿をとらざるを得なかったのかもしれません

                                            

彼女はそんな友人に対して、仕事の帰りなど時間が許す限り病床を訪れていました

今のような面会制限もなく、長い時間付き添っていました

医療者にとっては助かる存在だったのではないでしょうか

                                              

身体をさすったり、汗をかいていればきれいに拭いてあげたり・・・

                                              

徐々に弱っていく彼をどのような思いで介護していたのでしょう?

                                               

                                              

彼女はのちにつぎのように書き残しています

『わたしは病気になって悲しんでいる時、仲のいい友だちに抱きしめてもらった。でもわたしは彼を抱きしめてあげられなかった……』

心残りだったのかもしれません

しかし、彼女の心は残された日々をひとのために大事に使いたいという気持ちでいっぱいだったのだろうと想像しています

                                              

                                               

ある本でつぎの言葉を見つけました

―――自分のためではなく、ひとのために時間を使うこと、それはいのちを捧げることであり、尊い愛の行為だと思うのです

いのちは自分のものかもしれませんが、自分だけのものではないのだと思います―――