コロナ禍で病棟師長をされていたTさんから

貴重な証言となりました

―――コロナ禍における緩和ケア病棟の現場から ~分断と支援のあいだで~―――

新型コロナウイルス感染症の流行は、医療全体に大きな影響を与えましたが、特に「その人らしく余生を過ごすこと」や「その人らしい看取り」に深く関わる緩和ケアの現場では、その影響が非常に本質的で深刻なものでした。今回私たちが経験した現実と、それにどう向き合ってきたのかについてお伝えします。

面会制限という現実

コロナ禍で最も大きな変化のひとつは、「面会の制限」です。
感染対策のため、家族であっても病室に入ることができない、看取りの瞬間にも立ち会えない。たとえ会えたとしても短時間しか傍にいられない、そうした状況がありました。

病院での感染対策は、患者さんを守るためとスタッフも感染しないように、面会制限、さらには面会禁止措置をせざるを得ませんでした。それは緩和ケア病棟でも例外ではありませんでした。「緩和ケア病棟がそれでいいのか」という議論より、面会制限をしなければ、入院患者さんも働くスタッフも守れない。患者さん、ご家族にはとても辛いことになるが、「これは苦渋の決断、申し訳ないが仕方ない」と、スタッフ皆がそう自分に言い聞かせていたと思います。

コロナ禍以前の緩和ケア病棟

私たち緩和ケア病棟では、まず、患者さんの痛みやそれ以外のつらい症状をコントロールできるようにします。そして、自宅で過ごしていた時より少しでも楽な時間が作れたら・・・

コロナ禍以前であれば、ボランティアさんの淹れてくださるコーヒーが香る病棟で、ご家族だけでなくご友人の方とも制限なく過ごせたり、鎮痛剤の注射を受けながら、不安のあった外出に挑戦できたり、お誕生日や記念日にキッチンでご家族が集まり、焼肉パーティーをされたり、クリスマスや夏祭り、音楽会などなど、病棟イベント行事にご家族も一緒に参加してもらうことで、病床におられても季節を感じてもらえるように、スタッフがボランティアさんの力もお借りしながら、皆で楽しんで開催していました。ほかには、外泊が難しい患者さんに、週末の和室病室で子供さんたちが寝袋持参で泊り込まれ、ご家族で過ごす時間を作ることができました。これらはほんの一部分ですが、残された時間に限りがある中で、ご本人やご家族がどう過ごされたいのかを知り、それらを形にできるように、皆でサポートを考え実現する。そんな過ごし方のできる緩和ケア病棟でした。スタッフも皆、協同病院の緩和ケア病棟が好きで、ここで看護ができることに誇りを持っていました。

お見取りの場で生まれた分断

しかし、コロナ禍での面会制限はそれらの多くを奪い、とくに最期を迎えられるお看取りの際には、辛さと憤りのやる場のない無力さ、多くの無念さを残していきました。

『せめて、最期の時には家族と一緒に過ごさせてほしい』                                   患者さんからの切実な思いです。その願いが叶わないとき、看護師はご家族の代わりには到底なりえないと思いながらも、患者さんの傍に居て、出された手を握り、「ご家族がすぐに駆け付けてくれますからね、それまでは私たちが傍にいますから」と声を掛けながら静かに息を引き取られるのを見届けることがありました。胸が締めつけられました。

「ここは緩和ケアの病棟でしょ。なのに、家族が最期に立ち会えないって。家族みんなで付き添ってやりたい・・・こんな願いも叶わないんですか⁉それでもここは緩和ケアと言えるんですか」、ご家族からの悲痛な叫びを何度となく投げかけられました。そのたび私たちは、お気持ちを痛感しながらも感染を防ぐためにはと、頭を下げるばかりでした。しかし何を言葉にしてもご家族への救いにはなりませんでした。患者さんは、最期の時間を「ひとりで過ごさなければならないのか」という不安にさらされ、ご家族は、「大切な人と最期の言葉を交わせなかった、一人にさせてしまった」という後悔と悲しみを抱えながら病院をあとにすることになりました。

看護師の葛藤と恐れ

「もう、こんな思いするの、ほんまに耐えられへん、私が家族でもそう言うわ。面会制限辛い・・私らも会わせてあげたい・・・なんで私ら頭下げて謝ってそれでも許してもらえんのに・・・いつまでこんなことせなあかんのやろ・・・ほんまに辛い・・・・」                                                                           私たちが緩和ケア病棟の開設当初から、大切にし支えてきたことの一つには、患者さんと患者さんが大切に思う方と過ごす時間をサポートする、ということがありました。私たちがコロナ禍の前までは守ってきた緩和ケアの看護なのに、この時は「感染予防なんです、お気持ちはわかりますがすみません、ご理解ください」と、毎回のその言葉で、患者さんとご家族の大切なものに分断を強いてしまっていたのです。

しかし、私たちも面会の断りを伝えながら、ご家族の気持ちを思うと、いつもやるせなさと申し訳のない思いでいっぱいでした。そして自分たちの気持ちにも消せない傷が増えていきました。感染拡大を防ぐ責任と、患者さんやご家族の思いに寄り添いたいという気持ちの間で揺れ動きました。とくに看取りの場面では、命の終わりの時をどう支えるか、感染対策だけでは語りきれない大きな問いを突きつけられました。

そして、終息のないコロナ禍の私たちは、「自分が感染源となり、患者さんや家族にうつしてしまうのではないか」、という不安と恐れの中にありました。

「患者さんを守らなあかんけど、こんなコロナの中で・・・自分が知らずに感染源になるのだけは絶対に避けないと・・患者さんやスタッフの皆に迷惑はかけられへん・・でももしも感染したら・・・家族は、子供らは?おばあちゃん、おじいちゃんは無事でいられる?・・・・怖い。守らなあかんものがいっぱいある、自分だけは感染したらあかん・・・」

スタッフ皆、それぞれに守りたい人やものがあるからこそ、「感染してはならない」という強い緊張が常にありました。そのストレスは非常に大きなものでした。スタッフの中で、家庭内で別居を考えたり、それにより関係性にひびが入ったり、退職することを考える人もいました。感染をしない、ウイルスを持ち帰らないために、冠婚葬祭にも出席を断念したり、高齢の祖父母に会いに行けなかったり、別居家族の認知症が進んだケースもありました。私たち医療者もまた、家族との分断を強いられていました。

当時、3階病棟がコロナ感染症の患者さんに対応しているとき、その真っただ中にいたスタッフが、コロナと闘いながらも、一人、また一人と感染して現場を離脱していく状況にありました。その中に以前同僚だったAさんも感染したと聞き、私は彼女にねぎらいや感謝を伝えたくて、ラインでやり取りをしていました。以下は実際の内容を抜粋したものです。

私:激務の中、ほんとにお疲れさんでした。このあいだ、3階に医材の受け渡しに行ったとき、Bさんに手渡した。「頑張って!」としか声がかけられなかった。すぐエレベーターで5階に戻るとき、なんか、涙が出た。だって、Bさん、笑ってたもん。頑張ってくれてありがとー。前より元気になって帰ってきてね。

Aさん:(陽性になって)帰り、着替えしてて、もう勝手に涙が出て。みんな頑張ってるなか、もう働けない悔しさで号泣でした。ほんとみんな頑張ってる!弱音吐かずに。 Bさん、まかせろ!言うてました。

私:そうやったんやね。みんな、めっちゃカッコいいな! 自分責めたりせんで自分をねぎらってあげて。コロナに負けたわけじゃない!今度帰ってくるときは最強や!みんな待ってる、痩せんと出てきてね

Bさんは私たちの先輩で仕事のできるベテランNSです。騒然としたコロナ病棟の激務の中で、自らも大変な状況であったのに、頑張れとしか言えなかった私にも、頑張っても感染して療養に入らなければならなかったAさんにも、「まかせろ!」と笑顔を見せ颯爽と病棟に戻っていく後ろ姿がありました。私はこの時のことを思い出すと、今でも泣けてくるのです。ほんとうに壮絶でした。(Aさんは無事に復帰されています)このあと、私も負けていられないと、すぐ管理にコロナ病棟への志願をしました。今は自職場を守るときだと諭されましたが、それでもいつでも声がかかれば支援に行く覚悟を伝え、家族にもそう話していました。

当初は、感染すれば自分もどうなるかもわからず、患者さんにも、自分の家族にも、同僚にも迷惑をかけ、奪うものも小さくないかもしれないと、私たちは理解していたからこそ、「患者さんのために制限の解除をするべきだ」と、簡単には言い切れなかった。私たちはあの時、面会制限だけが悪だとは思えなかったのも事実でした。私たちにも、それぞれに守りたい家族や生活、信念があります。
「自分の家族を守りながら、他の方の家族の人生の最期の時に責任を持つ」、その緊張感と覚悟の中で、きれいごとでは語れないリアルな感情がそこには確かにありました。

支え合いと工夫

こうした中で、現場ではいくつかの工夫や試みが行われました。一つにはオンライン面会です。
タブレットを使って、画面越しではありますが、患者さんとご家族が顔を合わせられるようになりました。私たちが慣れない機器に戸惑いながらも、患者さんがご家族の声を聞いて笑顔を見せる姿に、また、その笑顔や患者さんの何気ない仕草などを見て喜ぶご家族に、私たちもつられて笑顔になり、立ち会うたびに癒されました。
ほかには、担当看護師が、平日のオンライン面会にも来れないご家族に、電話連絡でその間の様子を伝えさせてもらうことや、荷物の受け渡しの際のわずかな時間を貴重な時間ととらえ、患者さんの様子を伝え、ご家族の近況などを伺うよう積極的にコミュニケーションをとるようにしたり、ご家族からのお手紙を受け取ったあと、ご家族には少し待機してもらい、すぐに患者さんへ届けて代読し聞いてもらい、その反応をご家族にお伝えしに戻ったこともありました。それから、急な危篤状態で駆け付けられなかったご家族と、携帯電話をつないで、携帯の通話口から患者さんへ語り掛けてもらうなど、 「つながることの意味」を改めて感じた瞬間がいくつもありました。

私たちスタッフの間では、3密を避けながらも、毎日カンファレンスを行いケアの方向性を見い出し、できるだけその人らしい看取りを実現するために話し合い、最期の時の一時的な面会許可についてなど、その患者さん個々の希望に寄り添えるようにしていきました。そのほか、ミニデスカンファレンスの開催を継続し、逝去された方を偲び、思い出を語り合ったり、やりきれない思いも率直に出し合い、チーム内で思いの共有やケアの確認も重ねていくことで、自分たちの心も守りました。 

                       

分断とつながりのあいだで

コロナ禍にあって、私たちは「患者さんと家族、患者さんと医療者、家族と医療者、医療者同士」の対話とつながりの重要性をより考える機会になったのではないかと思います。
人は、最期のときまで「誰かとともにありたい」と願う存在です。
誰かとともにあって、触れあい、語りあい、見つめ合うことでもたらす安心感が、どれほど深い力を持つのか。それを支えるのが私たち緩和ケア病棟の役割であると、あらためて気づきました。

今後も、感染症などの予期せぬ事態が起こる可能性があります。
そのとき、私たちは再び同じように「分断」に直面するかもしれません。しかし、どんな状況下でも、「その人らしく生きる、その人らしい看取りを守る」方法を考え続けることが大切なのだと思います。 緩和ケアの現場は命の尊厳を最期まで守る場所であり、その現場を守っているのが私たち医療者、看護師であることも伝えられたらと思います。

現在、我が国の医療施設では、次の非常事態に備えられるだけの医療体制があるとは思えません。私たち医療者は、常にリスクと隣り合わせですが、それでも現場を離れずに医療と看護ケアを守り続けるには、現場の努力だけでなく、社会の理解と支援が欠かせないと強く感じました。今起こっている医療崩壊など、あってはなりません。医療、看護を守る人材を、国は早急に確保できるような仕組みを作らなければならないと思っています。

ボランティアをしていただいたAさんからです

 緩和ケア病棟10周年おめでとうございます。病棟開設時のコンセプト「切れ目のない医療のなかでの緩和ケア病棟」「医療生協ならではの緩和ケア」「あたたかい下町の緩和ケア病棟」を実践し続けている方々、毎日がんばっていらっしゃることと思います。

 私は10年前、開設準備でボランティアの募集があったとき、少しでも役にたてればと思い応募しましたが、大事な役割を果たせるのか不安ばかりでした。それでも同じ想いの人たちと一緒に緩和ケアボランティア講座を受け、他院の緩和ケアを見学・学習したり、ミーティングを重ねたおかげで開設のスタッフに加わることができました。

 活動は3~4人がチームとなり、曜日で分担して行いました。

 内容は病棟の花の水替えをしたり、病室から眺められるベランダの草や花の手入れをして、気持ちよく過ごしていただけるようにしました。午後にはあたたかい飲み物と簡単な手作りお菓子をサービスさせていただいたり、患者様やご家族にホッとするひと時を過ごしていただきました。

 患者様はお一人お一人状態や事情が違うので病棟のスタッフとよく相談して行いました。

 時にはデイルームで組合員に講師をお願いして折り紙や絵手紙を楽しんでいただいたこともありました。また病棟が計画する季節の行事のお手伝いをしましたが、春に近くの公園に桜が咲くと車いすやベッドのままでも出かけてお花見を楽しんでいただけたことはボランティアの私にも良い思い出です。

 患者様が亡くなって約半年後に開かれた家族会のお手伝いをした時に、参加された方々がこの病棟に入院して良かったと述べられるのを聴いて、私たちの緩和ケア病棟があって良かった!と実感しました。

 病棟はいつも静かでゆったりしています。患者様が最期を迎えるその時まで精一杯自分らしく生き抜けるよう寄り添い援助するという重責を担うスタッフに私たちボランティアも支えられ学ばせてもらいながら活動させていただきました。

 残念ながらコロナ禍で活動は中止となってしまいましたが、貴重な経験をさせていただいたことを感謝いたします。

 これからも医療生協ならではの緩和ケア病棟としてあり続けていただきたいと思います。

つぎは初代の病棟師長Nさんです

早いもので開設から10年ですね

緩和ケア病棟開設の師長の話があった時、長年外科整形病棟の師長をしていた私は、癌で手術をされ回復し、退院を迎える急性期から今度は終末期で看取ることが中心となる看護をすることに戸惑いがありました。しかし組織で決められた方針なので「やるしかないか・・」という消極的で心細い気持ちがあったことを覚えています。

まずは緩和ケア病棟の老舗ともいわれるR病院に研修に出させていただきました。緩和ケア病棟の役割、緩和面談を経て入院から退院までの流れや、症状緩和の為の薬剤の使用方法やケアの方法、カンファレンスの持ち方、看護体制や一日の勤務の流れに加えて、薬剤師や心理士、セラピスト、MSWや栄養課との協働について学ぶこと、医療者ではないボランティアさんへの対応や患者さんやスタッフとどう連携をすればいいのかなど、課題が山積みでした。

そして私が考えていた以上に薬剤の使用方法や副作用の対応などかなり専門的な知識が必要であったこと、機械の数値に頼らず、患者の訴えや看護師の五感を働かせたアセスメントをすることを学びましたが、研修中も私に何ができるのだろうと、ひどく落ち込み「私には緩和ケア病棟の師長は無理かもしれない」と泣きながら帰った記憶があります。

それでも準備は着々と進み、緩和ケア病棟とは何かを知っていただくために、あちこちの班会に参加させてもらいました。世間では、緩和ケアに対してまだ認知度も薄い状況で「緩和ケア病棟って何してくれるの?」という質問が飛び交い、今までの経験や学んできた知識を最大限に引き出しながら必死に対応したことを覚えています。

スタッフは、緩和ケアがしたいという想いを持って採用されたメンバーや他の部署からの異動などもあり、徐々に集まってきました。職責のメンバーは一緒に働いてきたこともあるメンバーでどのようなチームを作っていくかなど集中して話し合うことができ、とても心強かった記憶があります。準備の期間は、病棟で使用する必要物品の買い出しから、運用についてのマニュアル作りなどを行いながら、知らないメンバー同士も打ち解けあい、同じ緩和ケア病棟開設という目標に向けて徐々に気持ちの方も動き出しました。症状緩和のために必要な薬剤についてやケアについて、М医師や認定看護師の力も借りながら学習を進めていきました。そのほか、季節ごとのイベントや病室でのペットとの面会、家族会やドッグセラピーの運用などの準備も山ほどありました。

開設当日はテープカットもさせていただきここまで来たことにほっとした事やこれからの不安に頭が混乱していました。

開設してからも、患者さんが最期に肉が食べたいと言えば家族さんと共に食堂ですき焼きをする、自宅に外出されご家族とのバーベキューの時間にお邪魔する、病棟のベランダで一緒に花火を観る、持続皮下注射をしながら近所のスーパーへ買い物に付き添う、キッチンでは料理を患者であるお母さんが娘に伝授することへの支援などなど、様々な患者さんやご家族の大切な時間に寄り添い、患者さんやご家族が望めばそれをかなえるために皆で話し合いできるだけやり遂げられるような方向で動いてきました。

日々、苦悩はありましたがボランティアさんが入れてくださるコーヒーの香りに癒されながら、間もなく最期を迎える患者さんの思いを聞く、ただそばにいる事も大事なことだとは思いながら常に何か私たちができることはないかと私もスタッフも考えていたように思います。

緩和ケア病棟はプライマリー制を取っていたので、患者さんが旅立たれるとスタッフも涙が出て、しばらく後悔の念でいっぱいになったりやる気を失ったりという事がありました。師長としてそういったスタッフがまた元気に患者さんに寄り添えるよう、声をかけたり傾聴したり勤務表の工夫をしたり、次のプライマリーの時期を主任さんたちと考えたりすることも私の役割の一つだったと思います。

今思うとあの時代はコロナ前という事もあり、本当に好きなことをさせてもらいました。経営面と看護のやりがいという相反する部分での葛藤は常にありましたが、スタッフが元気で心身ともに安定し、患者さんやご家族をどう支えていけるかを一番に考えていたように思います。

あれから10年、神戸医療生協の緩和ケア病棟も多くの組合員さんや地域の人々に知っていただけるようになり、開設当時とはスタッフも変わりましたがみな患者さんにいいケアを提供したい、ご家族に寄り添いたいと思う気持ちは変わらないと思います。

経営面での縛りはより一層強くなり、安全面、感染面なども考慮すると自由にならない看護に対するスタッフの悲しい気持ちが痛いほどわかりますが、それでも自分たちの看護に誇りをもって、これからも緩和ケア病棟を患者さんやご家族、地域の人々の為によりいいものにする為に進んでいってほしいなと思います。

10年の記録に載せるため、4人の方に文章をお願いしました

それぞれの思いをいっぱい書いていただきました

最初は当時事務局を担っていただいたWさんです

1.開設に向けての準備

2015年春の開設に向けて、休止していた神戸協同病院の5階病棟を「緩和ケア病棟」として再開することが決まりその担当者として活動を始めました。ホスピスとも呼ばれていた「緩和ケア病棟」は、長田区にはなく神戸協同病院に出来れば、利便性もよく地域からの要望も高かったです。

兵庫県内の同じ民医連病院の「尼崎医療生協病院」や「東神戸病院」では、すでに「緩和ケア病棟」を開設しており、まずはそこへの見学から始まりました。

東神戸病院では、多床室での運営をしておりその経験から私たちに出来れば「個室での緩和ケア」を勧められたこともあり、全室個室を目標としました。また、尼崎医療生協病院では、臨床心理士がグリーフケアや、患者会の要を担っており当院でも心理士探しが始まりましたが、ちょうど元職員さんの娘が心理士をしているという情報があり採用となりました。(現在は退職されています)

2,ボランティアグループの組織

 緩和ケア病棟は、一般の病棟とはやや異なっており「ボランティアグループ」が大きな役割を担うことが多いようです。いわゆる「病室」とは違い「最後の住居」のようなもので最後の時間を自分の好きなように過ごすことが出来ます。お酒を飲むことも出来るしみんなで集まり料理を作ることも出来ます。そんな折に大切な役割を果たすのが「ボランティア」です。

 いつもは、コーヒーや紅茶、おしぼりの配膳などのボランティア活動を行っていますがイベント時には、患者さんと一緒に料理を作ったり歌を歌ったりと専門職の看護師とは違った役割を担います。

 ボランティアは、チラシや機関誌「三つの輪」にて募集を行った所30名近くの方が集まりました。4回コースの「緩和ケアボランティア養成講座」を実施し、尼崎医療生協病院の臨床心理士さんの力も借りながらボランティアを養成していきました。集まったボランティアさんには、東神戸病院と尼崎医療生協病院の病棟見学にも行っていただき、すでにボランティア活動を行っている方々から貴重なアドバイスもいただきました。ほぼ、全員が養成講座を卒業しそのまま開設後のボランティア活動に入ってもらうことが出来たのです。

3,病棟開設に向けた病棟職員集め

 緩和ケア病棟は、閉鎖していた病棟を再開して作るため職員集めも大きな仕事でした。緩和ケアに興味がある看護師さんを組合員さんや業者からの紹介で集めていきました。他の病院で緩和ケア業務についており、緩和ケアの認定資格を持った看護師さんも採用することが出来て、看護師不足の大変な中なんとか病棟を開設するまでに漕ぎつけましたが最初からベットのフルオープンは出来なかったのが残念なことでした。

4,緩和ケア病棟の設計図づくり

 当院の緩和ケア病棟は、これまでの病棟の設計をガラッと変えて「全室個室」を目指して取り組みました。みんなが集まってイベントや団らんが出来る中央スペースや、ゆったりお風呂に入れるように大きなお風呂、患者さんの家族が泊まることが出来る畳の部屋などをどのように配置して患者さんがゆったりとくつろいで過ごせるか、みんな頭を悩ませながら取り組んだことが思い出されます。

 緩和ケア病棟の個室には、それぞれ旅館のように名前を付けようということになり「三つの輪」で公募を行いたくさんの応募をいただきました。最終的には、長田区在住の組合員さんが考えた「花の名前」を全室につけることになりました。後日、絵手紙が得意な組合員さんがそれぞれの部屋の花を描かれお部屋の名前の隣に飾ることができました。

東神戸病院や尼崎医療生協病院では「ボランティアルーム」がありボランティアさんが集まってわいわいと賑やかに過ごせるスペースに恵まれていましたが、当院ではそこまでのスペースが取れずにボランティアさんには申し訳なかったと反省です。

5,緩和ケア病棟について学び広める取り組み

緩和ケア病棟とは、どんな病棟か?また、緩和ケアとは何か?まだまだ知らない組合員さんが多かったため大きな会場での「緩和ケア公開講座」を2回行ないました。1回目は、安保博文先生(現六甲病院院長)に講演をしていただきました。地域に7700枚のビラを配布し、神戸新聞にも1万2千部の折り込みをしたおかげで参加者は予想以上に多く新長田勤労市民センター大会議室に約350名が参加し立ち見が出るほどの好評でした。また、当院の「緩和ケア病棟」を紹介するためのパンフレットも作成し、大量に地域に配布を行い医療生協ならではの緩和ケアの魅力を伝えていきました。

 2014年10月19日には組合員53名、職員77名の計130名が参加し協同病院周辺の組合員訪問を通じて新しく出来る「緩和ケア病棟」について宣伝を行っています。1,669名を訪問し587名と対話をすることが出来ました。師長室では、カレーの炊き出しも行い参加者に好評でした。

6.職員に向けた緩和ケア学習会

 緩和ケア病棟は、職員にとっても新しい取り組みで職員向けの学習会も3回講座で行いました。1回目は、関本雅子先生(現かえでホームケアクリニック顧問)に「在宅での緩和ケアと薬の使い方」、2回目は、辻本浩先生(現神鋼記念病院)に「緩和ケアに必要なせん妄の知識と対処法」、3回目は、安保博文先生に「緩和ケアにたずさわる医療者の姿勢」という内容で、職員も新しい緩和ケア病棟開設に向けた準備をしていきました。

7.担当者として思うこと

 これまで閉鎖されていた病棟をなんとか再開させたいという神戸協同病院の職員の思いと、緩和ケア病棟を長田の地に開設して欲しいという地域・組合員の要望がうまくかみ合って成功させることが出来たと思います。病棟職員の確保、緩和ケア病棟の設計、ボランティアの養成、地域への宣伝、出資金あつめなど課題や苦労は多かったのですが、地域と職員が力を合わせて取り組んだことでやりきることが出来たと思います。神戸医療生協の新たな病棟として、今後も末永く存続して欲しいと願っています。

私たちの病棟は2025年5月で開設10年を経過しました

10年のまとめを作成し、記念講演会を開催しました

以下にいくつかの文章を順次掲載していきます

※まず、10月16日に行った集会でのあいさつを若干の修正を加えて載せます

ご参加の皆様、お忙しい中ありがとうございます。

私どもの緩和ケア病棟は10年を迎えることができました。

ひとえに皆様方のご支援、ご指導があったからこそだと思います。

本当にありがとうございました。

今日の集まりの記念講演をお引き受けいただいた関本雅子先生、ありがとうございます。

神戸協同病院は医療生協を母体とした病院です。

神戸医療生協は来年で創設65周年を迎えますが、生協の組合員と職員が協力して医療・介護の事業を進めてまいりました。

緩和ケア病棟も同様であり、組合員と職員のプロジェクトチームで準備を進めてきました。

開設のための費用あつめをはじめ、先輩となる緩和ケア病棟の見学、職員の研修を行い、病室の花の名前は組合員がつけ、ボランティアも組合員が中心となり運営してまいりました。

私たちは最初の5年間様々なことに挑戦してきました。

お花見や節分、夏まつり、クリスマス会などの年間の行事のみでなく、誕生日には患者さんの希望をお聞きし「たこ焼きパーティ」「しゃぶしゃぶ」「焼肉」や「すき焼き」「手作りピザでのお祝い」さらには病室でご家族がそろって麻雀などが行われました。

そこには病棟スタッフのみでなくボランティアさんや栄養科、リハビリ科の職員などたくさんの人の関りがありました。

またペットの面会やドッグセラピーなど、そして大きな声では言えませんが屋上でのビアガーデンにも取り組んできたことはみんなの思い出として残っています。

ギターで作曲した自作の歌を披露された患者さんもいました。

患者さん手作りの絵やボランティアさんといっしょに作った折り紙、元気なころに作成された写真などの展示も行いました。

とにかく考えられることは何でも取り組んできたといえます。

中には計画の実行直前で病状の変化のために断念したこともあります。

私たちのそのときの心情は、病との闘いだけでなく楽しかったことや嬉しかったこと、ときには悲しくて泣いた時のことなど患者さん・ご家族の「思い出探し」をともにし、同時にこれからの「思い出作り」を限られた時間の中でどうしていこうかという試みでありました。

これまで急性期医療やリハビリテーションなどが中心であった病院の職員にとっては多くのことが初めての経験でした。

たくさんの施設の力をお借りしながら自分たちの業務の形を作ってきました。

たとえば医療用麻薬を始めとしたさまざまな症状を緩和するための薬剤の使い方に始まり、鎮静のあり方など諸先輩方に教えを請い、教科書やガイドラインに学びながら何度も話し合いを行い真剣に取り組んできました。

スピリチュアルな苦痛への対応は難しく、スタッフはベッドサイドで時間をとりながら患者さんに寄り添いました。社会的・経済的な困難に直面している患者さんにはMSWがしっかりと対応しています。

私たちは緩和ケア病棟で働くことでたくさんのお話を患者さんやご家族としてきました。

一人ひとりの人生や価値観は様々でその都度教えられることがたくさんあります。

しかしお話をした方々が亡くなられ、会えなくなることはとても悲しいことでした。

そのためデスカンファレンスやご遺族への四十九日レター、家族会などで振り返りを行いました。

そんな私たちを2020年からのコロナ禍が襲いました。

面会の制限や入院制限というこれまで経験のない事態に直面しました。

ある看護師さんの言葉です。

「感染対策のため、ご家族であっても病室に入ることができない、看取りの瞬間にも立ち会えない。たとえ会えたとしても短時間しかそばにいられない、そうした状況がありました。

緩和ケア病棟がそれでいいのかと言う議論より、面会制限をしなければ入院患者さんも働くスタッフも守れない。患者さん・ご家族にはとても辛いことになるがこれは苦渋の決断、申し訳ないが仕方がないと、スタッフ皆がそう自分に言い聞かせていたと思います」

緩和ケア病棟での面会の意義は単なるお見舞いだけではなく、プライバシーの保たれた病室で親しい人たちがゆっくりとしたふれあいの時を過ごされることにあります。面会制限によりたくさんの問題点が生まれ、ご家族へのケアも難しくなり、遺族の悲嘆の複雑化や長期化を引き起こし、さらにはスタッフの苦悩を高める可能性があると言われています。

おそらく全国の医療機関でも同じ悩みを持たれ、対策に苦労してこられたことでしょう。

私たちもWEB面会に取り組み、ご家族とはもっと頻繁に連絡を取り合い、電話連絡などをしながらその間の様子をお伝えしてきました。

ある患者さんはご家族からの毎回のお手紙を心待ちにされ、担当の看護師がそばで読み上げさせていただき、たくさんのお便りを壁いっぱいに貼らせていただきました。

急な病状の悪化で駆け付けられなかったご家族には携帯電話を患者さんの耳元にあて語りかけていただきました。

分断の一方でそれに勝るつながりを大切にしてきたのです。

そのような中「会えないなら家に帰りたい」と望まれる患者さん・ご家族が増えてまいりました。

「このまま病院で最期を迎えさせることになれば一生後悔します」「家族みんなでがんばります」と涙を流しながらご自宅への退院を訴えられました。

せっかくできたつながりを大切にとの思いで病院からの往診や訪問看護を行い、遠くに住まれている患者さんには地域の先生方の力をお借りしながら可能なかぎり在宅療養を支えてきました。

多くの医療処置が必要で毎日の訪問看護と頻繁な往診を行い、ご家族の懸命な介護を受けながらご自宅で旅立たれた患者さんのご家族は「もしコロナがなければ入院していたのに」と悔しさをにじませていました。

訪問看護師さんはこのような言葉を多くのご家族から聞いたそうです。

24時間交代で睡眠を削って介護をされたご家族、お母さんの頑張る姿に「お母さんありがとう、大好きだよ、お母さんのような人になるからね」とお声をかけながら最期のお看取りをされた娘さん、そこに至るまでには様々なご家族の思いや葛藤があったのではないでしょうか。

そんなときご家族からのお手紙にはとても励まされたことを思い出します。

「コロナ禍の中、日々大変な思いをされていることと思います。その苦労は大変なものであり、緊張を強いられる日々は心身にかかる負担も重いものでしょう。頑張っておられる医療従事者の方々に敬意を表することはあっても、心ない差別や偏見等あってはなりません。ご自身のため、大切なご家族の為、ご自愛ください・・・」

今病棟は面会制限が緩和され、少しずつ以前のような賑やかさや明るさが戻ってきています。

10年の間に1300人あまりの患者さんが旅立たれました。それぞれに大切な人生があり、その物語の締めくくりのときに私たちは参加させていただきました。

反省することはたくさんあります。痛みなどの苦痛の緩和が十分でなかった患者さんとは最期までともに悩みました。病気の進行に私たちのケアが追い付いていかずご希望を叶えることができなかったことがありました。患者さんやご家族とのコミュニケーションが不十分のためご迷惑をおかけしたこともあります。スタッフ間での思いの行き違いなどもときにはありました。

しかし患者さんお一人お一人に思い出があり、ともに喜び、哀しみ、励まし合いながらお付き合いを重ねてきました。患者さんやご家族から教えられたこともたくさんあります。

すべてのことに感謝しています。

これからは、

・面会の制限をどこまで緩和できるか

・家族会をどのように準備、再開しようか

・病棟ボランティアさんはいつからお願いできるだろうか

・コロナ前のイベントの復活は?

・在宅での緩和ケアの方向性はどうか

・スタッフの交代は医療機関であるかぎり避けられない中で、さらに力量を高め蓄積したい

・他の施設との交流もしたい

・医療制度上の課題や経営のことも考えていかないといけない

等など…考えることはいっぱいです。

さらに医療機関や介護事業所の皆様との分担と連携は重要であり、急性期病院から、地域のクリニックから、介護施設から、患者さん・ご家族からの要望に応え、求められる役割を果たしていきたいと考えています。

そしてもう一つ忘れてはいけないことがあります。

コロナ患者さんの受け入れなどのために緩和ケア病棟の閉鎖や一部閉鎖を余儀なくされた施設があります。

私たちの病棟ではそのようなことはなかったのですが、もともと入院を希望される患者さんすべてにお応えすることができない現実に拍車をかける事態でした。

また緩和ケア病棟に限らず入院が必要な患者さんが入院できないという状況がコロナ禍により生じたということを忘れるわけにはいきません。

今政策的に全国の病床を減らす動きが始まっています。この間の痛苦の教訓は次のパンデミックに備えるためにも「ゆとりのある病床が必要」ということであり、同時に医師や看護師などの医療・介護の従事者を増やすことではないでしょうか。

10年を経験してまだまだだなあと思うことばかりです。

これからも期待に応えられるよう頑張りますので、引き続きご支援・ご指導をよろしくお願いいたします。