2020年の秋から冬にかけて

「神戸協同病院緩和ケア病棟の7つの指針―2020(案)」をスタッフに提案しました

 

これは6年を迎えた当病棟にとって

これまで経験を積み重ねてきたことを整理し

日常の目安として意識してもらい

今後受け継いでもらう人たちに残すものとして

思いを整理したものです

 

まだ(案)であり

2020年時点での提案ということで

上記のような表現としました

                                            

神戸協同病院緩和ケア病棟の7つの指針―2020(案)

304-01

Ⅰ.おもてなしの心

最初の出会いを大切にしています

これまで闘病してこられたことを労う気持ちで受付まで私たちがお迎えにいきます

入院中は、ボランティアの温かな対応、食事の工夫、季節が感じられる行事などがお待ちしています

看護師の受け持ち制(プライマリーナース制)をとり、きめ細やかな対応を行っています

 

Ⅱ.しっかりとお話を聴きます

一番の困りごとはなんでしょうか?

趣味は? しておきたいことは? 会いたい人は?

そして今までのお仕事やご家族のことなどをお尋ねし、より深い理解に努めます

 

Ⅲ.丁寧な診察、必要な検査、そして治療方針を合意のうえで

苦痛のある検査や処置はできる限り避ける努力を行います

治療法やケアの方針は説明のうえ納得のもとで選択されます

 

Ⅳ.面談が命です

初対面での「緩和面談」、入院時の面談、病状変化時の面談、検査結果の説明、

お別れのときが近づいたときの面談 など一つひとつを大切にしています

 

Ⅴ.ご家族のケアも大事にしています

ご家族は第二の患者様と言われています

患者様ご本人だけでなく、ご家族様にも同じだけの心配りを行います

家族会にも取り組んでいます

 

Ⅵ.ケアは「いま」と「そのさき」を見据えて

今何を望まれているのか?

同時にこれから予測される変化を考えながらケアを行っています

退院を望まれたときには安心のできる在宅療養への移行を支援しています

 

Ⅶ.私たちは心と力を合わせ毎日のケアを提供しています

頻繁なカンファレンス(話し合い)で患者様・ご家族様の揺れ動く気持ちを受け止めら

れるよう意思統一を行っています

「できることはきっとあるはず」のこころで…

304-02

 

 

 

                                                          

 

 

 

 

 

 

 

※さいしょに載せたイラストは

「アルメリア」という花で

花言葉は「おもてなし」だそうです

 

JALの職員がバッジとしてつけているとうかがったことがあります

 

 

 

これからも意見を聴きながら

完成させていきたいと考えています

 

 

 

回診のあと

患者さんから

「先生や看護師さんたちに読んでいただきたいものがあります」と

手渡されました

303-01

「辞世」とあります

 

辞世というのは、この世に別れを告げることを言い、ヒトがこの世を去る時に読む漢詩や和歌などのことをいうそうです

 

私たち漢詩に疎い者のために

解説もつけてくださっています

303-02

胸の奥が熱くなりました

 

受け持ちの看護師さんが話をしてくれています

 

患者さんの言葉です

 

『これは心穏やかでないのではなくて、心穏やかに、自分の最期をじっと待っている。そういった決意です』

『3行目の協同(病院)の皆さんには感謝の意を表しています』

『2行目の雲は、昔の人は雲は山洞から出てきて山洞に帰るのだという、いわばロマンです。それをわたしは天に帰ろうという意味』

『これ以上のものはなく、今は死を受け入れているってこと』

と丁寧に話されたそうです

 

 

入院後に厳しい病状を説明しましたが

冷静に受け止められているように思えました

 

その後もご自分の現状を落ち着いて考えておられ

これからのこともしっかりと考えられている…

 

この姿に毎日敬意をもって接していました

 

 

これから病状が変わっていくにつれ

患者さんの心の中では

さざ波から大波へと変わっていくことが何度かあるかもしれません

 

 

そのようなとき、私たちは

いつもいっしょに歩んでいきたいと

心から願っています

303-03

 

2020年はとんでもなく忙しく、また経験のしたことのない1年となりました

コロナ禍は言うまでもなく私たち一人ひとりの人生に大きな影響を与えました

 

とくにこの四半世紀は医療に携わるものとして人生観が変わることになったといっても過言ではありません

 

1995年の阪神淡路大震災で私たちは生活や仕事を破壊されました

けれど一方では「絆」が強調され

大切な言葉となりました

 

個人的なことになりますが

この間

人の「生と死」を考えることが多く

緩和ケアにたどり着きました

 

 

25年たち

ふたたび生活と仕事を大きくゆがめる出来事に直面しています

それは目に見えない力で人と人のつながりーー「絆」を分断しました

 

医療者として何ができるのか、何をしないといけないのか

もういちど考えることになりました

 

心を整理して

緩和ケアにかかわる者として

コロナ禍をどうみることになったのかを

改めてのブログで述べることを考えています

 

年初にあたり、ちょうど1年前の新聞広告を思い出しています

 

「そごう・西武の正月広告」です

image001

引用;そごう・西武|新聞広告データアーカイブ (pressnet.or.jp)

 

再掲します

 

「大逆転は、起こりうる。

わたしは、その言葉を信じない。

どうせ奇跡なんて起こらない。

それでも人々は無責任に言うだろう。

小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。

誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。

今こそ自分を貫くときだ。

しかし、そんな考え方は馬鹿げている。

勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。

わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。

土俵際、もはや絶体絶命。」

  

最後に「文章を下から上へ、一行ずつ読んでみてください。逆転劇が始まります。」

とあります

 

1年がたち

読み返してみて勇気づけられる文章となりました

 

 

(1)患者さんと仲良くなって からつづきます

 


それからは、本人の病状が悪化することによって家族間の問題が浮き彫りになりました。A氏と30代で結婚して以降長く連れ添った奥さんは大黒柱であったA氏が入院したことにより精神的な落ち込みも強くなり入院当初から涙することが多く、A氏がいなくなる事に動揺を隠しきれず不安な気持ちを打ち明けてくれていました。子どもが2人おられたが遠方の為身近に相談できる相手がいないとの事もあり、私は注意深く奥さんの事も気にして声をかけるようにしていました。A氏にとって奥さんはとても頼りになる存在だったので、奥さんの事も私にとっては家族同様にとても大切な存在になっていました。奥さんにとってよき理解者でありたい、一人で悩んでほしくないという思いから面会に来られた時は積極的に声をかけ奥さんの精神的なケアも行えるようにその都度時間を作り思いを聞くようにしていました。しかし、新型コロナウイルスによって面会制限がかかり、限られた時間の中での面会は奥さんにとっても辛かったと思います。そこで毎日夜に決まった時間に携帯でお二人が連絡をとっているのを知っていたので、私が夜勤の勤務の際に時間がある時にはA氏から「今日は○○さんが夜勤やから電話交替するな」といってくれ、奥さんの健康面や本人の事などを聞きながら話をする事が日課でもありました。また、来れない時は1週間に一度は奥さんに連絡をとり、本人が必要な物を携帯で話していたのが出来なくなった時からは、私から連絡をし、奥さん自身が負担にならない範囲で、伝えることもしました。

 

そしていよいよ食事がとれなくなり、終末期せん妄が出現してから遠方に住まわれている娘さんと連絡をとることができました。奥さん自身、仕事が多忙である娘さんに頼ることができず、本当は一番相談したい相手ではあるものの遠慮され話すことが出来ないと話されていたので娘さんがA氏にどのような思いがあるかを時間を作り娘さんと面談をすることにしました。娘さんは遠方で仕事が忙しい事から中々病院に来ることも難しい状態ではありましたが「出来ることは手伝う」という前向きな発言を聞くことが出来ました。そして娘さん自身も両親に対する思いがありました。自身の事で辛いことがありそのことで相談した際に、「自分が辛い時に母は泣いていました。本当は泣きたいのは私なのに。だから私は父の事では泣きません。一番辛いのは父だから」その言葉に私は頷くことしかできませんでした。

 

A氏本人、奥さんからも娘さんに遠慮されている部分があったので娘と奥さんとのわだかまりを少しでもとり除くことができればという思いがありました。しかし、関係を修復することは難しいので、それよりも奥さん、娘さんの思いは個々にあるが本人を思う気持ちは一緒であることを伝えれるよう、奥さん・娘さんも交えて面談する時間も設けることができました。思いの橋渡しができるよう今までいえなかった思いを第三者を交えて話をすることで奥さんの思い、娘さんの思いを知ることが出来ました。奥さんの思いは「最期は娘と一緒にお父さんを看取りたい」という思いを娘に伝えることができました。

出来るだけ娘さんも看取りに間に合うことができるよう遠方の為スタッフ間でも話し合い連絡ができるよう話あうことも出来ました。

 

こうして看取り時の蜜な話し合いも家族と交えて話す事が出来ました。そして最終的には娘さんも看取りに間に合うことができました。脈が触れず、呼吸状態が悪化し奥さんは間に合いましたが娘さんが間に合うか心配はしていましたが、娘さんが到着してからはっきりとした意識がない状態であったA氏でしたが娘さんがきてくれたことに元気をもらったのか脈が再度触れはじめた事、娘さんが来るということに反応され身体を動かされた事、しゃべれなくても耳は最期まで聞こえているというのは本当なのだと感じた瞬間でもありました。私自身、お看取りの経験は緩和ケアに勤務している以上何度も経験はありましたがやはり長期間こうして一緒にいる時間が長かった患者さんに出会うのは初めての経験で、患者以上にA氏の事を父親のように慕っている部分もあったのでこの瞬間がくることに私自身も動揺が隠せませんでした。そして最後の時は訪れました。最期は娘、奥さんに囲まれながら息を引き取られました。娘さん「美女たちに囲まれてお父さん幸せ者やね。よく頑張ったね」と話され奥さんも涙されながら本人に感謝の思いを述べていました。私はというと、娘さんが以前話していた「辛いのは本人だから私は泣かない」という言葉が頭にあり「辛いのは家族だから私は泣いたらダメだ」と頭では思っていましたがいざA氏の息が止まってから「これでもうA氏に会う事は出来ないんだ。いつも私の事を待ってくれ、いつものあの笑顔がみれないんだ」と思うと自然と涙があふれ出てしまったのです。それをみた娘さんが私にそっと涙をふくように気遣ってくれたことに申し訳なく思いました。

 

「私が泣いてしまってすいません」と伝えた時も「父の為に色々してくれたんだから。父にしたらあなたは、神戸の娘みたいなもんやし」と労いの言葉をいただきました。最期は笑いもありながら本人の思い出話をしつつ最期は迎えることもでき、A氏自身も娘と奥さんに看取られて最期を迎えることができたのは本望だったと思います。私自身もA氏を傍で最期までみとることができ、最初にA氏が私に「どんどん僕が弱っていっても最期までちゃんとみてな、頼むで。あんたが頼りなんやから」といって笑っていた表情を思い返し最期をみとることができたのは、私にとっても本当によかったと心の底から思いました。

 

看護学生時代からいつか緩和ケアをしたいという思いで緩和ケアの本だけは看護師になっても捨てずにおいてあり、当時の本なので白黒の本当にシンプルな内容で、学生時代はみてもよくわからなかった文章も、こうしてA氏との深い関わりを通して、学ぶことが沢山ありました。

 

学生時代、また新人の時にどんな看護師になりたいかを話す時に、いつも私がモットーとしている“人情味のある看護師になる”という思いに少しでも近づいていっていると感じました。患者、そして患者の家族に対して誠心誠意尽くし、大切に思っていることを言葉で伝え続けていったからこそ心の距離が縮まることのできた事例になりました。もちろんこの7か月間は楽しいことばかりでなく、辛い事も沢山あり、悩む事も多く、感情が入ることもしばしばありましたがその思いに流されるところまで流されても帰ってくる場所がこの病棟にはあります。その時々に家族と話し合いが必要な時は、スタッフの皆さんが協力してくれ、時間と場所を作ってくれました。また、私が困っている時、落ち込んでいる時にはその都度声を掛けてくれた主治医や師長、スタッフ。沢山の人の協力があったからこそA氏との関係が深まり良い最期を迎えることができたのだと確信しています。これからも誠心誠意に患者さんと向き合い、人情味あふれる看護師を目指して日々邁進していきたいと思っています。

そして、患者、家族の前で泣いてばかりの看護師ではなく、私の肩貸しますよ!といえるくらいの心の強い温かい看護師になりたいと思います。

 


 

私たちのまわりにはこのように頑張っている看護師さんたちがたくさんいます

ともに働けることに感謝しています

301-01

 

 

 

 

感動的な看護を実践された看護師さんがいました

無理をお願いしてそのときの経験談を描いていただきました

私の下手なコメントよりもそのままを記載することが大切だと考え

このブログに載せたいと思います

(字句などわずかな手直しがありますが私の責任です)

 


私にとってのこの7ケ月は長いようで短かかったが、きっとこれからも看護師人生を続ける中でずっと忘れることの出来ない人だと確信している。

 

 

3月に入院してきたA氏は90歳代前半であったが高齢とは思えない程、気持ちもパワフルな人で活気に満ち溢れた人でした。直腸癌、仙骨・腰椎転移で長期座位の保持困難で臥床して過ごされることは多かったが趣味である折り紙を沢山折られ、地方裁判所の検事として長年勤務してから定年後は沢山のボランティア活動に参加され長期で続いていたのが水族館のボランティアでした。そこで、魚をかたどった折り紙を沢山の子供達に教え、50種類以上の魚の折り方を頭の中で熟知されていたという達人でもありました。性格は、真面目で何事も筋道を通して物事を勧めていくような慎重な方でもありました。

 

入院してからの3か月はA氏を知ることから始まりました。徐々に癌性疼痛が悪化しても’麻薬’という言葉に敏感で’麻薬=死’を早めるものと認識している為か受け入れるのにも時間がかかりました。症状があっても訴えはするものの薬が増えることへの抵抗もありました。

 

前院でまだ自分は治療がしたかった、化学療法もおこなったが副作用が強く年齢もあり医者からやめるよう説得されたと話され、そこでセカンドオピニオンも行ったが治療をしてくれなかったと今までの病院での医師の対応などにも不信感があったエピソードを教えてくれました。「頑張って長生きして奥さんと少しでも長く一緒にいたい」という思いが入院当初からありました。緩和ケア病棟に入院した理由として、本人から「前の主治医から疼痛コントロールが出来たらまた家に帰ったらいいと言われてこの病棟にきた」と話されており、まだここで終わりたくないという思いがあるとも話してくれました。入院当初からお話好きで今までの人生話や、折り紙の折り方など沢山の事を話してくれたのを覚えています。

 

月日がたつにつれ、疼痛が悪化し、何度も本人と話をした結果、時間を決めた麻薬から始まりましたが、飲みにくさと内服の数が増えることへの不満もあり麻薬のテープへと変更になりました。しかし、それでも痛みがUPすることがありましたが、我慢強いA氏の為、辛い思いを話してくれるものの、薬が増える事への抵抗の方が強かったようでした。その何かが変更になるたびに本人とは話し合いを続けました。なぜ薬が増えるのが辛いのか、なぜ薬の量をあげないといけないのか、一つ一つ本人と話をしながら本人の不安な事が解消できるように話をしました。主治医からの説明では特に質問はないものの、その後何か不安なことがないか伺うと、薬に対する思いや不満があったので、それを解決できるようにその場で何度も話をしました。また、主治医には直接言えない事も少しずつ本人の本音を引き出しながら話をすることで、信頼関係が生まれたように思います。

 

それからは、A氏も私が来てくれるのを楽しみに待ってくれるようになり、私自身もA氏に会う事が楽しみになっていきました。そして、親身になり親しくなればなるほど、本人の苦痛に対する思いに自分がどうしてあげればよいのか、またいつまでこの状態が続くかわからない精神的な苦しみに対して「この状態が100歳まで続いたらどうしたらいい?」と言われた時には言葉がつまりました。何かいい事をいってあげたい、この人の役に立ちたいという思いが先走ってしまいコミュニケーションに困ったこともありました。疼痛コントロールがうまくいかないこともあり内服をすすめても我慢してしまうA氏に対して、気持ちが溢れてしまい、A氏の前で涙がでたこともありました。するとA氏は「大丈夫や、痛くないで、ほら普通に座れるやろ」と端座位もままならないA氏でしたが、冗談をいって私に気を遣われたのです。そのことに私は反省し、師長に相談をしました。すると師長からは「患者さんの前で泣いたっていいやん。自分の為に泣いてくれてるんやって思ったら嬉しいと思うよ」と。また他のスタッフからも「傍にいるだけでいい。何も話さなくてもいい。聞いてあげるだけでいいんじゃない?」とアドバイスをもらいました。そして、もう一度冷静になり、再度自己学習として、コミュニケーションについて緩和の本を開いた時に傾聴、沈黙とありますがまさにこれだと実感しました。学生時代初めての実習で患者さんとコミュニケーションをとることに苦労した事、アセスメントや看護計画に必要な情報を聞くことに必死で自分の必要な事しか聞くことしかできず話のもっていきかたに苦労したことを思い出す事ができました。

 

傾聴と沈黙、この二つに重きをおきながらA氏と話すようになってから私自身の気持ちも穏やかになり、傍でただ寄り添い本人の思いに耳を傾けることによってそこからまた本人の思いを聞きとることができるようになりました。それからはより本人との距離も縮まり、知りたい情報はとことん付き添い本人が納得するまで時間をかけて話をするようにしました。本人の性格を知る事におよそ三か月はかかったように思います。

 


 

    (2)神戸の娘として につづきます