つぎは初代の病棟師長Nさんです
早いもので開設から10年ですね
緩和ケア病棟開設の師長の話があった時、長年外科整形病棟の師長をしていた私は、癌で手術をされ回復し、退院を迎える急性期から今度は終末期で看取ることが中心となる看護をすることに戸惑いがありました。しかし組織で決められた方針なので「やるしかないか・・」という消極的で心細い気持ちがあったことを覚えています。
まずは緩和ケア病棟の老舗ともいわれるR病院に研修に出させていただきました。緩和ケア病棟の役割、緩和面談を経て入院から退院までの流れや、症状緩和の為の薬剤の使用方法やケアの方法、カンファレンスの持ち方、看護体制や一日の勤務の流れに加えて、薬剤師や心理士、セラピスト、MSWや栄養課との協働について学ぶこと、医療者ではないボランティアさんへの対応や患者さんやスタッフとどう連携をすればいいのかなど、課題が山積みでした。
そして私が考えていた以上に薬剤の使用方法や副作用の対応などかなり専門的な知識が必要であったこと、機械の数値に頼らず、患者の訴えや看護師の五感を働かせたアセスメントをすることを学びましたが、研修中も私に何ができるのだろうと、ひどく落ち込み「私には緩和ケア病棟の師長は無理かもしれない」と泣きながら帰った記憶があります。
それでも準備は着々と進み、緩和ケア病棟とは何かを知っていただくために、あちこちの班会に参加させてもらいました。世間では、緩和ケアに対してまだ認知度も薄い状況で「緩和ケア病棟って何してくれるの?」という質問が飛び交い、今までの経験や学んできた知識を最大限に引き出しながら必死に対応したことを覚えています。
スタッフは、緩和ケアがしたいという想いを持って採用されたメンバーや他の部署からの異動などもあり、徐々に集まってきました。職責のメンバーは一緒に働いてきたこともあるメンバーでどのようなチームを作っていくかなど集中して話し合うことができ、とても心強かった記憶があります。準備の期間は、病棟で使用する必要物品の買い出しから、運用についてのマニュアル作りなどを行いながら、知らないメンバー同士も打ち解けあい、同じ緩和ケア病棟開設という目標に向けて徐々に気持ちの方も動き出しました。症状緩和のために必要な薬剤についてやケアについて、М医師や認定看護師の力も借りながら学習を進めていきました。そのほか、季節ごとのイベントや病室でのペットとの面会、家族会やドッグセラピーの運用などの準備も山ほどありました。
開設当日はテープカットもさせていただきここまで来たことにほっとした事やこれからの不安に頭が混乱していました。
開設してからも、患者さんが最期に肉が食べたいと言えば家族さんと共に食堂ですき焼きをする、自宅に外出されご家族とのバーベキューの時間にお邪魔する、病棟のベランダで一緒に花火を観る、持続皮下注射をしながら近所のスーパーへ買い物に付き添う、キッチンでは料理を患者であるお母さんが娘に伝授することへの支援などなど、様々な患者さんやご家族の大切な時間に寄り添い、患者さんやご家族が望めばそれをかなえるために皆で話し合いできるだけやり遂げられるような方向で動いてきました。
日々、苦悩はありましたがボランティアさんが入れてくださるコーヒーの香りに癒されながら、間もなく最期を迎える患者さんの思いを聞く、ただそばにいる事も大事なことだとは思いながら常に何か私たちができることはないかと私もスタッフも考えていたように思います。
緩和ケア病棟はプライマリー制を取っていたので、患者さんが旅立たれるとスタッフも涙が出て、しばらく後悔の念でいっぱいになったりやる気を失ったりという事がありました。師長としてそういったスタッフがまた元気に患者さんに寄り添えるよう、声をかけたり傾聴したり勤務表の工夫をしたり、次のプライマリーの時期を主任さんたちと考えたりすることも私の役割の一つだったと思います。
今思うとあの時代はコロナ前という事もあり、本当に好きなことをさせてもらいました。経営面と看護のやりがいという相反する部分での葛藤は常にありましたが、スタッフが元気で心身ともに安定し、患者さんやご家族をどう支えていけるかを一番に考えていたように思います。
あれから10年、神戸医療生協の緩和ケア病棟も多くの組合員さんや地域の人々に知っていただけるようになり、開設当時とはスタッフも変わりましたがみな患者さんにいいケアを提供したい、ご家族に寄り添いたいと思う気持ちは変わらないと思います。
経営面での縛りはより一層強くなり、安全面、感染面なども考慮すると自由にならない看護に対するスタッフの悲しい気持ちが痛いほどわかりますが、それでも自分たちの看護に誇りをもって、これからも緩和ケア病棟を患者さんやご家族、地域の人々の為によりいいものにする為に進んでいってほしいなと思います。
