下町の緩和ケア病棟(105)・・・3年(?)ぶりのクリスマス

コロナ禍で開けなかった緩和ケア病棟のクリスマス会

看護師さんたちの努力で実現しました!

事前に患者さんやご家族にお知らせをしました

看護師さんのかわいい手作りのプレゼントと、栄養科のみなさんによるクリスマスケーキ

そして

ちょっと睡眠不足のサンタです

さあ元気を出して患者さんのもとへ出発です

一人ひとりに手渡しながら

ご家族といっしょに笑顔のショット

スタッフも一緒に写りました

個人情報があるので残念ながら患者さんとご家族の笑顔は載せられませんでしたが、みなさんから普段とはちがう驚きや喜びの顔を見せていただくことができました

私は・・・

トナカイになってくれた看護学生さんとともに・・・

また来年もできればいいですね~

感銘を受けたことば・・・ある小説から

最近読んだ小説に感銘を受けています

緩和ケア病棟で働く看護師さんを中心とした様々な出来事

患者さんやご家族と向き合いながら最期の時まで寄り添い、多くの死を見送ってきた

著者の言葉で語られる物語を通して、緩和ケア病棟ってこんなところだったなあと振り返ることができました

物語そのものは小説を読んでいただくこととして(ぜひ読んでいただきたいです)、心に響いた言葉のいくつかを紹介します

◆久々に開催された一般病棟で働く看護師さん向けの緩和ケアの学習会で話しました

「病院で行われる治療は基本的に完治をゴールにしているが、緩和ケア病棟は完治や根治を目指した治療は行わない。だからこそ、ここでの治療に正解はない。常にその時点での最善を考える必要があり、それだけになにをするにも不安はつきまとう」

「ありがとう、と感謝されることもあれば、力になれず悔しい思いをしたこともあります。看取りって優しくて穏やかなものだけじゃないんですね」

◆2年ごとに開かれる看護師さんたちの集まりーー看護総会でのあいさつでも引用しました

「医師に比べると看護師は集団で患者さんに接するから、個人が目立つことはそれほど多くない。だからこそ自分の一挙手一投足は看護師という職業そのものへの信頼にかかわってくる」

「一人で抱えきれない感情をチームで分担する。そうでなければ仕事としての看護は成立しない」

「一人きりでずっと続けられることなんてないんです。どこかでだれかに頼ったり、任せたりしないと」

◆さらに別のところで書いた文章でも引用しました

「私は、言葉にしたことだけがその人の本心じゃないと思っています。表に出したこと、裏に秘めたこと、その両方を合わせないと」

ほかにももっとたくさんの珠玉の言葉たちがありました 直接目にしていただければと思います

もう来なくていい!!

 

Aさんのことを話します

 

70歳代のAさん

一人暮らしでご家族とは疎遠となり、連絡先もわからない状況です

 

10年ほど前に癌がみつかり手術

その後胸に再発し腫瘍がだんだんと大きくなってきました

同時に痛みが強くなり、私の外来に紹介がありました

そこからのお付き合いです

 

これまでも痛みの訴えがあるごとに医療用麻薬が増量され、かなりの量を飲まれていました

日に日に強くなる痛み

それまでは痛くても頑張ると通院していました(残念なことにその理由はわからないままでした)が、とうとう入院を希望されました

 

医療用麻薬は自己判断で増やしたり減らしたりしていることがわかりました

理由をたずねると

「もともと薬はきらいだった」

「麻薬を使うと頭がおかしくなると思っていた」

「ふらつきがつよくなった」

などと話されます

今までの医療用麻薬の説明が不十分だったのか、Aさんの理解が追い付いていなかったのか…

慎重に薬の調整をしていくように方針を立てました

 

しかし入院されたその日のこと

急に退院すると言われるのです

「しっくりこない」と言います

Aさんが考えていたことと、入院後の方針が「しっくりこない」と言うのです

「自分はそこまで重症とは思っていなかった」とも

 

看護師さんを交えて話し合いを持ちました

「動ける間は病院に通いたい」

「たくさんの薬を飲むと体がもっと悪くなってしまうんじゃないか」

「前の病院では麻薬は強い薬なのでこれ以上は出せませんと言われたのに、それからも薬が増えてきた」

「今まで先生たちは何一つ(わかるように)言ってくれなかった」

「(入院して病状が進行していると説明を聞いて)今まで自分が我慢し、頑張ってきたことに何の意味があったのだろう」

・・・突然号泣されました

さらに

「医者には見放された」

「これ以上の治療は痛い目をするだけなのであとは好きなことをすればいいと言われた」

「入院すればいいことはわかるけど、制限のあるような生活で最期を過ごしたくない」

ふらつきが強く、トイレなど動くときにはナースコールをお願いしていました

そのことも束縛感となっていたようです

話を聴いていると矛盾した内容もあるのですが、たとえ一人暮らしでも自分の家で自由に過ごしたい、まだ入院する時期ではなかった、入院は自分にはもったいないように感じるという気持ちを吐露されました

「動けなくなればそのときには病院にきます」

と話され、心配なことはたくさんありましたが退院はやむを得ないと判断しました

 

「ちゃんと病院には通います」とあいさつされ、帰っていかれました

 

その後毎週きちんと通ってこられました

 

数か月がたったとき

「息が苦しい、食事がとれない、痛みがひどくなってきた」

と、自ら入院を希望され再入院となりました

「こんどは言うことを聞きます、約束します」と明言されました

 

入院して1週間がたちました

 

「Aさんが急に退院すると興奮しています」と看護師さんからのコール

感染予防のための面会制限のことが我慢ならなかったようです

いま退院すると今度は簡単に入院できるかわからないと話してもそれでもいいと言います

「家で死ぬから」と持ち物を次々とまとめ始めています

ご家族とは連絡がとれないので知人に来てもらいました

それでも決意は固いです

退院はやむなしと今回も判断しましたが

前回よりもいっそう病状は進行しており

家の中を歩くことも困難であることは間違いありません

帰っても病院には来てほしいとお願いしましたが、まったく聞く耳を持たれません

 

往診で対応することにしました

Aさんにその考えを伝えると

「来なくてもいい、ひとりで家で最期を迎える」と淡々と告げられました

 

――そんなことを言われてもほっておくことはできない

Aさんが嫌がっても押しかけて行こう

と決めました

 

往診に行くと告げた日の朝

Aさんから「来なくていい」と電話がかかってきました

看護師さんが生活状況をたずねると

家の中を這って動いている

食事は友人に買ってきてもらう

とのこと

 

拒否されても行くことにしました

 

マンションに到着

鍵がかかっています

外からAさんに電話をかけました

最初は拒否していたAさんでしたが、何度も開けてほしいと声をかけると

ついにマンションの鍵が開きました!

 

診察し、薬の確認を行い

また来ますと言うと

「もう来なくていい」との返事

でも

「玄関は開けておいてね」と言うと

「はい」と返ってきました

転倒されたことも聞き

「そのようなときには訪問看護師さんを読んでね」

「わかった」との返事

 

――ほんとは不安で胸がいっぱいなんだろうな

嫌がられても次も往診をしようと看護師さんと確認をしました

 

2回目の往診

さらに動けなくなってきています

入院はやっぱりいやと決意は固そうです

 

ある日Aさんから連絡

全身の痛みが増強、動けなくなりました

救急車で来院してもらいました

 

まったく動くことができず

食事もとれていないためずいぶんと痩せてしまいました

 

以前のAさんとは異なり

いよいよのときが近いと感じられました

 

それから数日後

Aさんは静かに旅立たれました

 

お付き合いの期間はあまり長くなかったAさんですが

たくさんのことを学ばせていただいたように思います

 

1) 興奮している患者さんと向き合うとこちらも興奮しがちになります

私の悪い癖です

もっと冷静にならなければといつも反省をしています

患者さんが口にしたことだけが本心ではなく、その陰に隠れていることも合わせて聴かないといけません

そして説得ではなく納得が大切で、その納得のしかたも人により様々です

こちらだけの解釈に陥らず患者さんが何を言おうとされているのか、その時にどんな感情を持たれているのか

しっかりと受け止める努力を重ねたいものです

2)「不安はまだ起きていないことに対して抱く感情であり、その人が想像力のあることの
証拠」という話をある本で目にしました

長年のAさんの病気との闘い、様々な思いをもってきたことでしょう

矛盾をはらんだ話がでることは避けられないのかもしれません

私も目の前の患者さんにこれから起こることへの不安が湧いてくることが少なくありません

想像力を持って臨まないといけないです

 

3)最悪のことを想定して対応を考えておくこと

投げ出したくなっても患者さんに最後まで付き合うこと

できればそのために行動すること

―ぜひ心に留めておきたいと思います

嫌がられることがあっても「押しかけの往診」をする……

予約日の受診がなければ電話をし、時には家を訪ねてみる……など

記念行事・・・その2

 

<その2>ひまわり診療所 30周年

 

―――ひまわり診療所創立30周年を迎えて   (開設:1993年12月1日)

30周年おめでとうございます。

診療所の職員、地域の組合員の皆様、30年にわたる努力と奮闘に感謝いたします。

私は20周年のときに書いた挨拶をもう一度振り返ってみました。

開設をめぐって思い出すのは、医師集団と組合員さんたちとが熱い話し合いを持ったことです。組合員が望む医療内容や医師体制の現状など率直に話し合ったことです。

その中から所長候補が決まり、大きく広がった組合員運動を基礎にひまわり診療所が開設されました

私たちの力不足や複雑な医療状況を反映して今はこの時のような話し合いがなかなか持てないことが残念です。

第46回臨時総代会で建設が決まり、「組合員の医療と健康、くらしのセンター」として位置づけられました。

骨密度健診などの保健予防活動や院所利用委員会が活発に行われました。

ひまわり診療所のホームページの所長先生のあいさつには「地域に根差した診療所としてプライマリケアを実践すべく、地域の方たちのかかりつけ医をめざす」と書かれてあります。

ネット上での評判からも「安心できる地域のかかりつけ医」として信頼を得ていることがうかがわれます。

スタート時の姿勢がしっかりと根付き、発展しているのではないでしょうか。

今神戸医療生協を取り巻く情勢は厳しいものがあります。

ひまわり診療所と地域の組合員が、医療・経営、そして組合員運動の牽引車としてますます発展されることを期待して、ごあいさつとさせていただきます。

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記念行事・・・その1

 

私たちの法人では今年三つの診療所がそれぞれ〇〇周年を迎え、記念の行事が行われました

私があいさつ(あるいはあいさつ文)をさせていただいた二つの診療所への文章を掲載しておきます

<その1>番町診療所 60周年

 

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―――番町診療所60年のあゆみに寄せて

番町診療所開設60周年 おめでとうございます。

長い歴史を支え発展させてこられた神戸医療生協組合員の皆様、役職員の皆様に感謝を申し上げます。また地域の皆様、本当にありがとうございます。

60年前は60年安保の取り組みを経て大きな政治的、また社会的な高まりがあったことと思います。医療においてもその影響は大きく1961年に国民皆保険が実現し日本の医療状況の転換点にありました。私たちの先輩はポリオワクチン獲得運動などに取り組む中で、医療生協の地域活動の基礎を作ってこられました。そのようなとき番町診療所は地域の要求に応えるかたちで開設されました。

私個人のことに少しふれさせていただきます。

当時の番町診療所では夜間の当直事務のアルバイトを医学部の先輩たちが担っていました。私も何度かご一緒し、政治のことや医療のことをはじめ様々な話し合いを夜が更けるまで行っていたことを懐かしく思い出します。

学生時代セツルメント運動に参加し、番町地域での子供会活動を経験しました(あまり真面目な部員ではありませんでしたが)。

活動を通じて人権問題や平和のことなど知識としてだけではなく行動に参加する中で将来医療従事者としての役割の自覚を深められたのではと思います。番町診療所でその場を提供していただけたこととても感謝しています。そしてそれがなければ民医連や医療生協への参加はなかったかもしれません。

医師としての研修を神戸協同病院から始めました。その年はちょうど番町診療所15周年の集いがあり先輩医師に誘われて参加しました。まだ右も左もわからない新人のときに組合員・地域・職員の協同の取り組みを目の当たりにしたことは大学での勉強では学ぶことのなかったカルチャーショックであり、自分もこれからこの現場に参加することになると思うと気持ちが高ぶっていたことを覚えています。

現在までの医療の変化には大きなものがありました。番町診療所もその中で鍛えられてきました。10年ごとに振り返ってみます。1973年は高齢者医療費の無料化という画期的なできごとがありました。しかしその10年後の1983年、老人保険法が実施され無料制度が廃止され医療制度の改悪が進みました。一方で診療所では1984年に「デイホスピタル」が開始され、のちの特別養護老人ホーム建設運動の足掛かりになりました。1993年には療養型病床群の創設、2003年健保法改悪(70歳未満の窓口負担が3割に)、2004年には新医師臨床研修制度が開始となり医師の確保が厳しくなりました。2013年アベノミクス始動、特定秘密保護法成立、消費税増税など医療と政治・経済がさらに密接なものとなってきました。この年に番町診療所は50周年を迎えています。

私もお祝いの文章を書かせていただきましたが、ここに若干の引用をいたします。

元所長先生の言葉です。「数々の困難は地域の人たちや神戸医療生協のみなさまをはじめ、多くの人たちに支えられてのりこえることができました」「私たちは差別のない、まともな医療をめざして努力を重ねてまいりました」(15周年記念誌から)

職員はこのなかで成長し神戸医療生協のたくさんの幹部が生まれました。

私たちはこの精神をしっかりと受け継ぎたいと思います。

60年という長い年月、とくに医師不足に悩まされてきましたが、一つの医療機関として事業と運動を継続させるためには大変な苦労や努力があったことでしょう。

あらためて皆様方にお礼を申し上げます。

そしてこれから先ますます高齢化が進む地域において、所長先生を先頭にして質の高い在宅医療に持てる力を十分に発揮されることを心から願っております。

60周年おめでとうございます